人間の本体は神のみ心そのものであり、神の分生命そのものであるのですから、どうしても、本体のほうから、自分というものはこういうものだということを、知らせずにはおかないのです。

 ですから、どんな人間でも遅かれ早かれ、自分の本体はいかなるものか、本体とは思わなくても、自分というものは一体どういうものなのか、ああ自分を知りたい、自分のことが本当にわかったらそのまま死んでもいい。「朝(あした)に道を聞かば夕(ゆうべ)に死すとも可なり」という言葉がありますが、朝本当に道を聞いてわかったらば、もうその時死んでもいいんだ。自分の本質を知り、自分自身の本体がわかったならば、もうそのまま死んでも悔いはないということです。
  肉体人間がいくら栄華をつくし、権力を得たところで、瞬々刻々変滅してゆくのだからやがては消えてしまう。いくら総理大臣だの大統領だといってみたところで、或る事変がくれば、一介の庶民よりも辛い想いをしたりして果ててしまうわけです。

 そういうものではあきたらないものが人間の中に誰でもあります。ただ業に覆われていると気が付かないのです。そんなことに見向きもしない、想いが行かないだけなのです。想いが行った人が宗教的になって、心霊の研究をする人もあるでしょう。
 まともに宗教に入る人もあるでしょう。社会事業の面に入る人もあるでしょう。あらゆる面で本当のものを求めてゆくわけです。
 自分の本体を知れば、本当の仕事、いわゆる天命が完うできるわけです。それを私は、消えてゆく姿で世界平和の祈りという方法で教えているわけです。
 あらゆるもの、喜怒哀楽も現われてくる幸不幸も、環境もすべて過去世の因縁の消えてゆく姿であって、消えるに従って、自分の本心、本体の姿が自然に現われていくる。その本体は何かというと、神のみ心と一つであって、光り輝いている完全円満な実体なのです。それがだんだん現われてくる。
 だからたとえ不幸があろうとも、病気があろうともそんなものは問題ではない。
 消えてゆく姿なのだ、そのあとから本体が現われてくる。もし病気でそのまま死んだとしても、肉体が消えてしまっただけで、本体は光り輝いている。
 そうすると、また必要あれば地上界に本体から生まれかわる形になりますから、死ぬ時に〝消えてゆく姿〟がわかっていれば、いくら病気で苦しんでも、 ああこれで消えてゆくのだな、これで私が清らかになって本体が現われるのだな、と思って死んでいけば、きれいな心になっていけるのです。
 そして今度生まれ変わる時には菩薩のようなきれいな輝く心で生まれてくるわけです。或いは富貴栄達、名誉を得て生まれてくるかもしれない。                          
 (おわり)


五井昌久『我を極める』 第一章 自我と大我 「自己の本体を知る 人間の本体とは」より

 人間の本体とは。この世の権力に固執し、地位にあこがれ、実績にこだわり、財宝にしがみつくも、そこに現われてくる自分は変化変滅する浮世の影にすぎない。

 そこには本当の自己はいない。人間の本体はどこにあるのかというと、神のみ心と一つであって、光り輝いている完全円満な実体なのであると、五井先生はおっしゃるのです。

  そうだったのか。こうなると、もう面白くも何ともない。人間は面白いというのは、これまでとは見違えるような素晴らしい姿を現したりするからであると思っているのですが、しかし、こんなことをいったって、人間の本体について、じつは筆者の私とてまだまだ経験上、知らされていないことはいくらでもあるはずです。

 ただ、五井先生のお話が理解できれば、これだけはおそらく信じられます。生涯を終える瞬間に、「ああ、私は何もしなかった。何一つ残せなかった」と嘆いて死ぬか、それとも、存命中ははたから見たらパッとしなかったり、不遇なように見えたかもしれないが、「私はこの一生を費やして、とうとう真の自己を見つけることができた。この歓びからすれば、一生をこの一事にのみ捧げられたことに、決して悔いはない。むしろ、幻影に取り巻かれつつ本当のことは何もわからずに空しくこの世を去ることを考えれば、大成功だった。いくら感謝してもしきれないほどだ」といって幕を閉じるのか、その違いは天と地ほどであると。