前回に続いて、人間というのは面白い存在だねと、かねがね五井先生がおっしゃっていたというお話を伺った若い私が、今になって少しだけそのことが実感できるようになってきて、最近、ひもといた『我を極める』という五井先生のご著書の中から、この箇所こそは、そのことを想い起させてくれる箇所だと思えた部分をご紹介します。


たとえばここに五十になる人がいるとします。五十になるまでには脱皮したり、業をつけたりいろいろと変転して、立派な人が立派でなくなる場合もあるし、立派でないように見えたのが実は、中の立派なものが出てくる場合もある。
何の何某と名前がついているから同じ人間かと思うと同じ人間ではないのです。

 肉体人間として顔形としてそう違いはしないけれど、年々歳々、瞬々刻々変化しているのです。そして最後に一番の大変化をとげた時、それは本心の自分、本体の自分がそのまま現われてくるのです。


 私を例にとれば、子どもの時の私と二十台の私、そして三十才台の私と四十才台の私、さらに五十才になった私とは大きな変化をしています。特に三十才台の時には大変化をとげて、まるで違った人間になったわけです。外側から見て肉体が変わったわけではないけれども、肉体を通して現われた人間像としては、まるっきり違った人間になったわけです。


 赤ん坊はみな可愛い顔をしています。なんて可愛いんだろうと思います。あどけない、なんて可愛いんだろうと思います。あどけない、何んの悪意もない、見ているだけでも気持ちがいい。ところが、十五になり二十になると嫌な子になる場合があります。


 一体どこからそれが出てくるのか、赤ん坊の頃の可愛い感じが本当なの か、嫌な人間のほうが本当なのか、どこに一体その子の本質があるのか。
 また三十才の頃は嫌な奴だったのが、五十になって立派になって来て、六十才になってさらに立派になるかもしれない。ですから名前は同じだけれど、本当に同じものではないのです。現われている肉体人間というのも、年々歳々変わっているのです。


 細胞組織は瞬々刻々新陳代謝しています。そして何年かすれば身体の細胞は全部変わってしまうのです。だから肉体を持った人間というものは本当のものではないのです。消え去ってゆく姿です。
 

 本当の人間は何かというと、神様のみ心の中で光り輝いている霊なる人間なのです。その光がそのまま真直ぐ地上界に現われるために、過去世からの誤まった想い、業想念が病気になったり不幸になったり、災難に遭ったり、いろいろ変化して消え去っていって、最後にはきれいな霊なる神なる人間の姿がここに現われるわけなのです。(つづく)

五井昌久『我を極める』 第一章 自我と大我 「自己の本体を知る 人間の本体とは」より


 自分なんか三十代の頃のほうが四十代の今よりはよかったのではないかとか、逆進化の過程をたどっているんではないかなどと思ってしまった時期もあります。

しかし、この文章を読むと、いや、人間は最後までわからないぞという明るい希望が湧いてきます。潜在意識の想念の貯蔵庫にたまっているものは質、量ともにはかり知れず、守護の神霊が適当な時期に業として外に出して消えてゆかせるわけなので、現れたものだけを見て、それがその人だと、判断していたんでは、とうてい正確に自己の本体をつかむことはできないのでしょう。


 「最後に一番の大変化をとげた時」が来るために、いろんな削りくずが出されてくるだけで、一時的に悪く見えたり、良く見えたりしているにすぎないということです。


 そして、その時がいつ来るかはわかりません。「嫌な奴」が急に「立派」な人間に変貌を遂げたように見えようと、じつは最初から存在した本体が、それを覆う厚い雲が吹き払われることで完全に顕現してきたということであって、それは別に不思議なことではない……。といはいえ、ふつうは、表面の現ればかりに目が行きがちですから、「嫌な」面や「ダメな」面のほうを、その人のすべてだと信じてしまうことになる。それだけに、大変化した人が目の前に現れると、びっくりしてしまうのだと思います。


 だから、五井先生は人間とはいかなるものか、何もかも承知しながら、ごくふつうの人の視点にも立って、この昨日と今日と打って変わってまるで変化してしまう人間存在を、「面白いねえ」とつくづく感慨をこめておっしゃっていたのではないでしょうか。


 もちろん、良くなる場合だけではなく、非常に高い心境にまで昇りながら、一気に低い所へ転落してしまうというケースもご覧になったことでしょう。

それをも含めて、「面白いねえ」といわれたのだと推察しますが、どちらかというと、この「人間の面白さ」は、「最後に一番の大変化をとげた時」にフォーカスが合っていて、どんな人間だって、どんな境遇にあったって、どんな運命に置かれたって、そんなものは屁でもない、人間とは皆さんの想像を絶するくらいに素晴らしいものなんだよ、可能性を秘めた存在なんだよ、宇宙と同じくらいに大きな存在なのですよと、私たちを常に心の中で励ましながら、相談事に耳を傾け、柏手を打ち、浄めながら、おっしゃっていたような気がしてくるのです。