昭和三十年頃に五井先生に邂逅ともいえる出会いをして入門された故武中きみさんは、私にとって、その行いや言葉から生きた五井先生を伝えてくださる大先達でした。このブログの昭和三十一年の白光誌の記事紹介のメニューも、武中さんがくださったいくつもの段ボール箱いっぱいの立派なバインダーに綴じられた白光誌バックナンバーを役立てたいとの願いから着想したものでした。

 

 その武中さんから、師がまだ肉体にいらしたとき、口癖のようによくおっしゃっていたという言葉をうかがったことが何回かあります。

その言葉とは、「人間は面白いねえ」です。人間ほど興味深い存在はないということをまるで独り言のように、五井先生はしみじみとおっしゃることがしばしばあったということなのでした。

 

 そのときの若い私には、しかしその言葉の玄妙な意味までは解することはできていなかったなと、四十代の最後の年齢の今になって思うのです。今ならば、少しは実感をともなってわかる気がするのですが。

 

 今回ご紹介するのは、武中さんと対坐し伺った上述のお話の記憶にもとづき、五井先生のご著書の中から私なりにそれにふさわしいのではないかと思われた部分を選んで抜粋させていただくものです。

 それでは、以下、三回に分けて、『我を極める』から五井先生の御言葉をご紹介することにいたします。



 人間は、物ごころがついて、いわゆる考えることが出来るような年令になったらば、一番最初に「自分はどういうものなのか、人間というものはどういうものなのか、自分はどうしてここに生まれて来て、どういうようにして生きてゆくのがよいか」ということが心に浮かぶのが本当なのです。

 ところが世の中では、死ぬまで自分自身が何んにもわからないで、自分自身のことを探求もしないで、ただ目の前の利害得失や、つまらない喜怒哀楽だけを追っている人がほとんどです。皆さんは自分自身を求めて、それを探りたいために宗教に入っていらっしゃるわけですが、本当に幸福なのです。

 一番始めの望みであり、最後の究極のものであるのは、やはり自分自身を知ることなのです。それを知ることによって、人間として本当の生き方、働き方が出来るのです。知るといっても頭で知識として知るということではないのです。心で知ることです。心の中でハッキリ知っていて、それが行いに自然に現れているお婆さんやおじいさんがいます。理屈はわからないけれど、自分は今日生かされているままを生き、そのまま有り難く感謝して生きている、という人がいます。そういう人は確かに自分を知っているのです。

 ところが少し学問をしてくると、ますます自分がわからなくなってくる、それでいて自分を知ろうとは思わない。ただ現象の利害得失、地位とか権力とかお金とか、そういうものだけを追うようになっていきます。肉体の自分というものの満足感だけを追い求めて生きてしまうわけです。


 ただ、人によって前に会った時そうだったから、現在もそうかというとそうでない。 昨日会ってくだらない者が明日、明後日に会って立派なほうに向いていることが随分あります。 (つづく)


    五井昌久『我を極める』 第一章 自我と大我 「自己の本体を知る 人間の本体とは」より