想いがどれほど重要かということは、なかなか自覚しにくい。
とくに現代の物質主義文明のもとでは。
 他人にたいして向けられた想いが、感情や欲望をともなわないときは、

たいした影響を相手に与えない。
 ところが、どうしても会いたいとか、あの人を守ってあげたいなどという

欲望や強い愛情がはいってくると、どうなるだろうか。


 この場合は、メンタル体の質料だけでできた想念形態のまわりにアストラル体の質料を引き寄せることになる。
 このアストロ・メンタル形態と呼ぶ複合体が発生源である体から飛び出して、
感情(この例では愛情)の大正である相手に一直線に飛んで行く。
ここをもう少し見てみよう。


「もしも想念が強烈であれば、距離など想念形態にとっては何ら問題
とはならない。(中略)たとえば愛念や護ってあげたいという望みを
他の人に対して強く向けると、その想念形態は相手に行き、彼のオーラ
の中にとどまって庇い守る働き手となる。それはその人仕えるあらゆる機会、
その人を守るあらゆる機会を求めはするが、決して意識した、
分別した行為としてそれを行うのではなく、その想念形態に印象づけられた
衝動に盲目的に随順して行うのである。そしてそのオーラにやってくる力(複数)
が友好的なものであればそれを強め、非友好的なものであればそれを弱める。
こうしてわれわれの愛する人々の廻りには、事実上守護の天使が造られかつ維持される。
遠くにいる子供のために捧げる多くの母親たちの「祈り」はこのようにして
子供を囲み、既述の方法で働くのである」
(神智学大要 メンタル体 第八章 「想念形態」より)


 いかに想いの力が大きく強力かということがわかる。現実的な効果をもたらすからには、想念形態は或る種の精妙な物質だといってもよいと思う。
 ということになると、たとえば、紛争地域で傷つき不安や恐怖におののく同胞だとか、飢餓に苦しむ人々を救済する方法は、物資や医療による援助という手段を用いることのみが最良の選択だとはいいきれない。


 想念の純粋さや愛情の強さによっては、そのエネルギーが人々を救うのにおおいに有効性を発揮するのだといえる。
 それは、ただ苦しむ人々を一方的に外側から救い、依存させてしまうのではなく、彼らを内から励まし、内在する叡智や勇気や互いに助け合う愛や希望といったよき
ものを最大限に引き出すものともいえるかもしれない。

 なぜなら、想念形態が相手に影響するのは、その波動に感応し共振することのできる質料が、相手のオーラの中にあるときだけだからだ。


「上の事実がわかるとわれわれは巨大な力を手中にしたことになる。(中略)すなわち、人間はこの物質界では相手に対して直接には何もしてやれない場合がたくさんある。しかし人間のメンタル(およびアストラル)体には影響を与えることができるし、それは物質体よりもずっと容易に印象づけられうる場合がよくある。従って、相手の助けとなる想念や、愛情の籠った感情によって相手のメンタル体やアストラル体に影響を与える機会がいつもわれわれには開かれているのである」