一昨日、ドキュメント映画「1/4の奇跡」を観た。養護学校の先生をしているかっこちゃんこと山元加津子さんは、障がいをもっている人々の生きざまからたくさんの大切なメッセージを受け取る。彼らは運命とともにある自分が自分自身であることを完全に受け容れている。


 そして、彼女は社会的な地位や能力などの外見にたいする差別意識をもたないということにとどまらずに、欠点と見える性格までも、あるがままのあなたでいいのだよと受け容れてゆくことを学んでゆく。


 かっこちゃんが病弱養護学校で出会った雪絵ちゃんは目も足も脳もつぎつぎと機能が失われてゆくMS(多発性硬化症)という病気をもっていた。二人は多年のうちにもう無二の親友のようになっていたけれど、雪絵ちゃんが亡くなる直前になって、かっこちゃんにたいし、絶対にダメっていわないでねと何度も前置きをしてから頼んだ約束事。それは障害のある人もない人もすべての人がそのままでいいんだよということのわかる世界にかっこちゃんが変えてほしいということだった。

(山元加津子先生のホームページの中の「雪絵ちゃんの願い」 (←ここをクリック)に詳しく書いてあるのでご覧ください。)


 そして、かっこちゃんがどうしても韓国に用があって、雪絵ちゃんの容態が再び悪化したときに飛び立たねばならなくなると、飛行機の便が欠航になる。12月26日、悪天候でないにもかかわらず欠航になって、かっこちゃんは不思議でしょうがなかったが、まもなく雪絵ちゃんのお母さんから連絡が入り、雪絵ちゃんが亡くなったということだった。


 雪の積もった朝に生まれた雪絵ちゃんは自分が生まれた12月28日にお葬式が行われるように肉体を離れた。かっこちゃんは、雪絵ちゃんが自分のことを自分で決めなかったことは一度もないのだから、死ぬ日も自分で決めたにちがいないと確信する。


 自分の事を決められるのは自分しかない。MSになって本当によかった。そして、自分のことが大好きということを、生前、雪絵ちゃんがいっていた。
 どんな運命にも状況にも、自分が不当に投げ込まれているのではなくて、自分が決めたことなんだと思えるのは、非常に高い心境に達してこそできることだろう。
 それはカルマというものを引き受けながらも、そこに神のみこころにかなった心の或る地点を見出すということではないか。


 過去がどうあろうと、今の自分が好きになれる。今の自分が幸せだと思える。そこには何の欲望もない。感謝のみがある。何かになろうという欲望があるかぎりは、こうした心境にはなれないと思う。
 たとえ良い結果が出なかったとしても、自分で決めるということには、深い意味がある。 



 横関実 縁談の相性について先生のところに相談にこられた人の中には、先生が駄目だと云われても、どうしても自分たちで決めてしまう人があるのです。そういう人たちは恋愛などに多いのですが、これは業と業との結びつきで、業を果たすためにどうしても結ばれてしまうのですね。先生はこういう人達が相談にくると、〝まあ、五十点だけど良いでしょう〟と云われるのです。五十点といえばあまり良い縁ではないのですね。どうして先生がこんな縁でも良いといわれるのかといいますと、先生から駄目だといわれてもどうしてもその人達が結ばれてしまうことが先生にはちゃんと分っていらっしゃるのです。 
 もし先生からいけない、といわれて、それに反したことをやって失敗した場合にはその人たちは先生の処に来にくくなる。ところが先生から〝良いでしょう〟とお赦しがあればたとえ失敗の結婚であっても、その人はもう一度先生の処に相談に来ることができるのです。たとえその人達に憎まれてもよいから、何とかその人達を救うために縁を結んでおいてやりたい、と云うのが先生のお心なのです。
 金子 有難いことです。
 村田 先生は何とかしてその人達を幸福にしてあげたいと云われるのですよ。(後略)

(昭和三十一年『白光』十二月号 研究会「宗教と現実の生活-煩悩は悟りへの道-より」)


 五井先生のお見通しの力だけでなく、思いやりの深さがうかがえると同時に、本人が自分で決めるということを尊重し、また、業の性質というものを承知した上で、可能なかぎり救いの手を差し伸べようとする指導の仕方と愛念が伝わってくる。


そして、人生のすべてをあたかも自分で決めたとおりであるかのように歩みながら、起こった出来事や置かれた境遇のすべてに感謝できたときは、いのちが完全に燃やしきれたときであり、最もいのちを神々しく輝かせるときであろう。