今生の運命は過去生でどんな想念を抱いたかにより、ある程度は決まっている。決まっている運命のうち苦悩や困難として、それらが人生に現れてくる意味は何かというと、不調和な想念が消えてなくなり、再び宇宙法則にのり、神のみこころに調和した響きへともどるための軌道修正にほかならない。

 

 不幸な運命が現れるたびに、これで消える、これから必ずよくなると信じて、感謝とともに祈ることができれば、そこから自然とよりよい運命を創ってゆく方向に向うことになる。

 

これを白光真宏会では五井先生以来、「波動調整」の名で呼び、また「消えてゆく姿」の名で呼んできた。


 忘れてはいけないのは、ここに神の大愛の働きがあるという一事だ。

不幸や災難に遭うのは、何も罰や償いのためではない。そうではなくて、繰り返し出てきては行為に影響をおよぼしている誤った想念のパターンが神の光の中で消されることで心の歪みを修正し、より高次へと魂を進化させるためである。

そこにこそ絶えまない進化創造の行われている宇宙の一員としての私たち人間にとっての地上生活を送る本来の意味が潜む。


生きていること。それは過去生の清算をすること。魂が浄まること。そして、より深い叡智と愛に目覚めてゆくこと。だとすれば、どんな状況と条件のもとに「消えてゆく姿」を起させるのか。それが非常に大事になってくる。

もし、単に凹みを取りさえすればよいのなら、機械的にヤスリをかければよい。けれども、過激にやられるよりは、できるかぎり痛みやダメージ少なく、マイルドに消してもらうほうが、本人にとって、あるいはその人を愛する人々にとっても、ありがたいに決まっている。


そこで完璧なシナリオを描き、キャスティングを決定し、演出を行うには制作スタッフと総指揮を行う監督が必要になる。

この人間同士ならば誰も引き受けたくないであろう厄介な仕事をやってくださる制作スタッフないし監督こそが、守護霊様、守護神様など目に見えない存在であることはいうまでもない。これを神愛と呼ばずして何と呼ぶべきか。


こうした真理を理解するには自分自身が体験を重ねる以外にないだろうが、他の人の体験談にも理解の助けとなり、励みとなる話は少なくない。

そう思って、半世紀以上も前の白光誌のバックナンバーから、決して古くならない真理の体験と学びを参考にしていただきたく、ここに引用させていただいた。


 今回は、昭和三十一年十二月号の「研究会」(八名の出席した座談会)の記事の一部を紹介する。なお、原文は一部旧仮名遣い、旧漢字を用いているが、読みやすさに配慮して改めた。 





斉藤(※註) (前略)それから世界平和の祈りについての体験ですが、先日私が電車に乗っているときに、何か分らないのですが、―末子が大怪我をした、と云う感じがフーッとしてきたので、その時、平和の祈りをしたのです。それと丁度同じ頃、家内も外でそんな感じを受けたので家に帰るまで、世界人類の平和を祈り続けたと云うのです。家に帰ってみると、末子がやはり怪我をしていましたが、とても軽傷だったので、これは本当は何か大怪我をするようになっていた処を、平和の祈りで大難が小難に変えられたのだと思って感謝しています。

村田 現象的には、どうしても怪我をさせて業を消させなければならぬ場合もある、と先生は云われていますね。明るい心で平和の祈りをしていますと、最小限の怪我に負けて貰えるのですね。

金子 世界平和の祈りをすると云うことは、人間の運命が好転するように応援していることになるのでしょうね。

斉藤 頭に浮かんできた悪い想いや予感は、すべて消えてゆくのだと思って世界平和を祈れると云うことは有難いことですね。私がもし宗教に入っていなければ、嫌な感じがしてもそのままにしていたでしょうが……。(後略)

研究会『宗教と現実の生活』―煩悩は悟りへの道―(『白光』昭和三十一年十二月号)



(※註) 斉藤…斉藤高広氏。白光眞行会結成時の役員会会長。