デヴァチャンといわれる天国は、フィジカル(物理的)なボディ(肉体)を離れた後に意識が移行する「想念の世界」である。また、そこに住む住人をデヴァチャントという。


ここは生きている間にその人が現した愛や献身などの美しい想念だけを転生のプロセスにおける各々の生より甘露のように集めてきて創り上げられた世界で、精妙なメンタル質料からなる。

肉体を去り、アストラル界での生活を一定期間果たした後、二回目の死より目覚めるとどうなるのかについて、『神智学大要』ではつぎのように説明する。


「今まで寝ていた人がデヴァチャンで目を醒ますと、まず真っ先にこの上なく微妙な色彩が彼の目に挨拶するのが見える。空気までが音楽と色彩かと思われ、全心身に光と調和が漲る。やがて黄金色の霞の中から地上において愛した人々の顔が現れる。その顔は霊妙なる美に輝き、下界の葛藤や喜怒哀楽に染まぬ至(い)と気高き、至(い)と美しき情感を湛えている」(『神智学大要』メンタル体 第20章天国の原則)


これを読むと、天国では筆舌に尽くしがたいほどの至福感に包まれる体験をすることがわかる。といっても、それは本人が生きているうちに起こした「純粋な利他の感情」という想いを「窓」として、天界の栄光と美とを見るにすぎない。
それが「人は過去における努力の積み重ねによって造り上げた器量に応じた分だけしか天界からは引き出すことができず、またそれに応ずる部分だけしか認知することはできない」といわれていることだ。

こうしたことが世の中一般に理解されてくれば、ずいぶんと異なった価値観で人は生きるようになることであろう。

それでは、しばらくは原典からの抜粋を紹介することにしよう。


「メンタル界層は神の光の反映、すなわち無尽蔵の貯倉である。天界生活を享受している人は肉体生活およびアストラル生活中におこした想念や求道心の力相応のものをこの貯倉より引き出すことができるのである。

人は過去における努力の積み重ねによって造り上げた器量に応じた分だけしか天界からは引き出すことはできず、また、それに応ずる部分だけしか認知することはできない。

このようにして、地上生活中は主として物質的なものを重んじた人はメンタル界に居ながら、その世界に接触する窓はほんの少数しか造りえない。しかし、芸術、音楽、哲学のような世俗を超越したものに関心を持っている人の場合は、測り知れない楽しみと限りない教えとが彼を待っており、彼がどれだけそれを享受するかは一にかかって彼自身の知覚力にある。


一方、その高尚な思いが思いだけにとどまるだけでなく、愛情や献身と結びついている人々も多い。他人を深く愛する人、あるいは何らかの神に対して深く帰依する人(以下この二者を甲とする)は相手の人または神の像を深く心の中に描き続けているので、彼は当然その心象(心の中に描かれた姿形)をもったままメンタル界に移る。なぜならば、その心象を構成している質料はメンタル界を構成している質料であるからである。


するとここである重要な、しかし興味のある結果が生ずる。この心象を形成しそれを維持しているところの霊は非常に強力であるから、その霊の対象である相手(以下、乙と称する)の魂(それはメンタル界層[第四、五、六、七亜層]よりもさらに高いコーザル界[第一、二、三亜層]に居る)に届きそれに働きかける。なぜなら、この場合甲の霊の対象は乙の真我即ち魂であって、乙という全体的存在のホンの一部分の表現にすぎない肉体部分ではないからである。乙のこの魂は霊の波動を感ずると直ちに、そしてまた熱心にこの波動に応え、自分(乙)のために造られた想念形態(乙の姿形の現われ)の中に自分(乙)自身をいわば注ぎ入れ、同想念形態は魂の入った一箇の生き者となり、しかも甲が地上生活中に交き合いあるいは共に暮らした頃よりもさらに生き生きとして文字通り彼(甲)の傍に居るようになる。従って、相手(乙)が生きていようと、いわゆる死んでいようと事態に変わりは全くない。それは訴えや呼びかけが肉体に幽閉されている相手(乙)(それは彼の一部分でしかない)に対してではなく、その本来の層(第一、二、三メンタル亜層すなわちコーザル界)にいる相手(乙)その者すなわち相手の真我に対してなされるからである。そして魂は常に応える。


従って、百名の友人を持っている人は百名一人一人の愛念に同時にしかも十分に応えることができる。コーザル界以下の低い界層(メンタル界、アストラル界、物質界)でどれだけ多くの人々が乙の姿形を思い描いていようと、、無限者である魂がその一つ一つに応えてその一つ一つに入魂しえないということはない。故に人は自分を愛する人が何名いようと、彼等の「天国」の中に自分自身を示現することができるのである。

このようにして、天界生活においては、各人の身の回りには彼の親しい人々(夫婦、親、兄弟、姉妹、親友等)にそっくりの想念形(姿形―それは彼[魂]自身が前述のようにその一部をもって入魂して賦活したものである)が集まっている。しかもその想念形態は彼から見ての最善の状態(美しい、若い、親切、優しい、愛情深い、等等)にあるのである。
それというのもその想念形態は彼の美しき思い出のもとに彼自身が造り出したものだからである。
制約された物質界では、われわれが家族、友人、、知己のことを考える時は、われわれの見知っているその制約された現象面しか考えない。しかし、天界ではこれに反して、われわれは地上界にいた時よりは遥かに近く彼等の実相に接する。なぜならば、われわれは彼等の魂の本地に対して二段階すなわち二階層(アストラル界層およびメンタル界)だけ近いからである。


人間の死後のメンタル界層での生活とアストラル界層での生活での生活とを比べてみると、両者の間には重要な違いがある。
アストラル界層では、われわれは、睡眠中に肉体より離脱してアストラル体に移った知友に出会う、その時の知友は高我(魂)ではなく低我である。ところがメンタル界層で出会うわれわれの知友は地上で彼等が使用しているメンタル体の中にいるのではない。実は彼等の魂は全く別のメンタル体を形成し、このメンタル体を通じて彼等の低我の意識ではなく高我の意識が働くのである。従って彼等のメンタル界層での働きは物質(地上)生活を送っているその低我とは全く別なのである。
故に地上生活を送っている生きた人間の低我に振りかかる悲哀や苦悩は今や彼の高我(魂)が新しい、もう一つのメンタル体として用いている彼自身の想念形態(彼の想念と意志とで造ったメンタル体)には些かの影響も及ばない。もしこの想念形態(彼のもう一つのメンタル体)の中で自分の低我の悲哀や苦悩を覚えたとしてもそれは何ら苦にはならない。なぜならば、彼はその悲哀や苦悩をコーザル体に宿る魂(高我)の観点より視る、すなわち、、それを徒に嘆き悲しむのではなく、何かを学び取るべき教科、あるいはそれによって過去の業を果たしつつある、と観るからである。彼のこの観方に間違いはない。間違っているのは低我の観方なのである。なぜなら、低我が苦悩あるいは悲哀と見るのはコーザル体の中にいる真人にとっては進化の道の昇り階段にすぎないからである。」


『神智学大要 メンタル体』 第20章 天国の原則 より