本稿は9月26日の續きです。
http://ameblo.jp/kotodama-1606/entry-11622084652.html 



 

御製に學ぶ日本の心  24               

    執筆原稿



           編著     小 林 隆
           謹撰謹緝  小 林 隆
           發行     傳承文化研究所





明治天皇  (百二十二代天皇) 22  


 明治時代



  をりにふれて

いそのかみ古きためしをたづねつつ
  新しき世のこともさだめむ
 


《歌意》
 この國で遙か古の昔より行はれてきた樣々な試みを尋ねながら、新しいこの明治の御代を定めて行くことにする。





【私見解説】

 
 前回に於て歐米諸國への偏向した風潮が
 政治政策に多大な影響を及ぼしたお話を説明しました。


 このやうな西洋文明禮讃の偏重の風潮を
 最も苦々しく思つてゐたのが西郷隆盛でした。




 彼は若き日の明治天皇に
 最も大きな影響を與へた人物になりますが、
 「南洲翁遺訓」の中で次のやうの述べてゐます。



「廣く各國の制度を採り、
 開明に進まんとならば、
 先づ我が國の本體を据え、
 風教ふうきょう(德による敎化)を張り、
 然しかして後徐しずかに
 彼の長所を斟酌
しんしゃく(取捨選擇)するものぞ。

 否
しからずして猥みだりに
 彼に倣
ならひなば(西洋を模倣すれば)、
 國體は衰退し、風教は萎靡
いびして
 匡救
きようきゆう(救濟)すべからず、
 終
つひに彼の制を
 受くる(外國に支配される)に至らんとす」



 我が國の國體を忘れて
 西洋に媚びて國家造りをしてしまふならば、
 日本は西洋諸國の植民地に
 なつてしまふと警告してゐるのです。


 そして、明治天皇の侍講として奉仕した
 元田永孚も、西郷隆盛と同じ考へを持つてゐました。


 元田は明治11年(1878)明治天皇に行はれた
 論語の連續講義の中で次のやうに述べたといひます。




「維新後急に歐米の文明を模倣し、
 敎育の方法も西洋流になり、
 …博識多藝の人は維新前の百倍に増えたが
 外面の虚飾だけのことであり、
 …我が國の精神性に乏しく
 道德の根柢を缺き、
 國家柱石の人材を
 養成しやうとしても得る事ができません。

 凡そ敎育は日本人の養成に
 主眼を置くのでなければ、
 敎育などしない方がましです。
 これは皆、敎育の本末を
 誤つてゐることから來てゐるのです」


(「元田先生御進講録」より)




*元田永孚




 明治天皇は、このやうに地に足のついていない
 敎育が行はれてゐない事に危機感を覺へられて、
 敎育の改革を行はれる事を指示されたのです。


 此の時の明治天皇の御言葉を
 元田永孚は「教學大旨(教學聖旨)」としてまとめたました。


 これを明治天皇は明治十二年(1879)九月に、
 文部省並に參議兼内務卿であつた
 伊藤博文に示されたのでした。



*伊藤博文(明治初期)



 それが次のものです。


維新の當初、陋習ろうしゅうを破り、
 知識を世界に廣めるといふ卓見によつて、
 一時西洋の長所を採用した結果、
 日に日に其の效果は上がつたとはいへ、
 その悪弊として仁義忠孝をなおざりにし、
 いたづらに洋風を競ふやうになつてしまつた。

 これでは將來が思ひやられ、
 終には君臣父子の大義も
 知らないやうになつてしまふかも知れない。

 かうしたことは、我が國の敎育の
 本來の姿ではないので、
 今後は歴代天皇の御教えに基づき、
 専ら仁義忠孝を明らかにし、
 道德の學は孔子を主にして、
 …正しい敎育を天下に廣めたなら、
 我が國が精神的に獨立する上でも、
 世界に恥ぢないものになるに違ひない」


(現代語譯)  (片山清一編「資料・敎育勅語」)より



 これによつて明治の御代の文明開化を
 誤解した洋風に染まつた學校敎育の是正の
 第一歩が始まつたのでした。



次回に續く