本稿は9月22日の續きです。
http://ameblo.jp/kotodama-1606/entry-11619060427.html 



 

御製に學ぶ日本の心  23               

    執筆原稿



           編著     小 林 隆
           謹撰謹緝  小 林 隆
           發行     傳承文化研究所





明治天皇  (百二十二代天皇) 21  


 明治時代




 【敎 育】






 をりにふれたる

いにしへの御代みよの敎をしへにもとづきて
   ひらけゆく世にたたむとぞ思ふ



《歌意》
 歴代の天皇さま達の敎にもとづいて、この明治維新の世に對處してゆきたいと思ふ。



【私見解説】

 明治維新は、日本の肇國の基である
 神武天皇創業の始めに戻る復古の思想と、
 歐米文明を積極的に導入しやうといふ
 開花の思想が特徴に擧げられます。


 五箇條の御誓文には
 それがはつきりと表はれてゐます。


一 智識を世界に求め、
   大いに皇基を振起すべし。


 「智識を世界に求め」は
 歐米文明を開化思想といふことでありませう。


 そして、「大いに皇基を振起」は、
 當に復古の思想に當ります。



*五箇條のご誓文



 この大御歌は、このやうな復古思想と
 開花思想の共存を詠はれたものになります。



 これについて矛盾してゐるやうですが、
 この二つの思想は兩方とも
 幕末に於ける尊皇攘夷思想によつて
 生じたものといへます。


 何故ならば、尊皇思想は、
 飽迄も天皇親政による國家體制を目指したものです。


 一方、攘夷とは異國の侵略を
 阻止することがその目的でしたが、
 現實にはその實力に於て
 とても阻止することが出來ないといふ事がわかると、
 日本は攘夷ではなく開國して歐米に學んで、
 急速な近代化を図ることで獨立を堅持することとしました。


 しかし、急速な歐米近代化は、
 國内を多くの混亂と歪みを生じさせました。


 特に敎育界では從前の敎育(皇學・漢學)が衰退し、
 洋學による敎育に大きく舵が執られることとなります。


 明治三年頃には、文明開化が流行の先端となり、
 復古の思想などは「舊來の陋習」などといはれ、
 殆んど顧みられない有樣となつてしまひました。


 このやうな中で、學問の中心として
 東京帝國大學が作られることとなります。


 その發足時の事情から、
 國學・漢學を廢した洋學のみに偏したものとなりました。


 これが日本の近代學問の性格を
 決定づけることになります。


 現代に於ても日本の大學では
 皇學や漢學は殆んど行はれてゐませんが、
 これはこの發足期の事情によるといへます。



 明治五年には、我が國最初の
 近代的教育制度が確立し、
 學校體系を小學・中學・大學に一元化して、
 總ての國民に初等敎育の門戸を
 開いた點に於て画期的なものでした。


 これは、五箇條の御誓文の
 
一 官武一途庶民に至る迄、
  各其の志を遂げ、
  人心をして倦うまざらしめん事を要す。
 

といふものに照應したものです。


 しかし、當時の風潮について當時、
 教育制度や教科書の編輯に當り、
 後に修身の必要性を説き
 現日本弘道會の前身である修身學社を創立した
 西村茂樹は次のやうに述べてゐます。



*西村茂樹



「學問は身を立つるの
 財本なりといへる主意にして、
 専ら生を治め、産を興すことのみを説き、
 一も仁義・忠孝を敎ふるの語なし、
 餘 當時民間に在りて是れを讀み
 心大いにこれを疑ふ…、

 竊かに文部諸官員
 及世間の識者の意見を探りしに、
 政府の官員はいづれも西洋の文明に眩惑し、
 本邦從前の敎育は固陋にして、
 一も採るべき所なしと思ひ、
 世の儒者・宗教家は文明
 東漸の勢力に壓せられ、
 一も世間の風潮に抗して
 己れが信ずる所を主張せんとする者なし…

 學科の内には修身の科はあれども、
 既に儒敎を廢したるを以て、
 修身の敎に根礎とすべき者なし、
 是に於て人心の歸向する所は
 修身・道德を蔑視するの方に向ひ、

 …國内の人心肆然しぜんとして
 放恣
ほうし(勝手放題)となり、
 其の流弊りゅうへい(悪い習慣)の極まる所を知らず」



 この中で

 「人心の歸向する所は修身・道德を蔑視する方に向ひ」


 とありますが、これが今の日本と
 重なるやうに思ふのは私だけでせうか。

 明治初期に於けるこの風潮は
 國民精神に危機をもたらすことになります。


 西洋文明に眩惑されて自國に對し
 て劣等感を持つてしまつた者も
 出てくるといふ始末に陷つたのでした。


 明治九年當時の知識人の情けない姿を
 ドイツ人醫師で政府のお雇い外國人であつた
 ベルツは次のやうに日記に殘してゐます。



*ベルツ



「何と不思議な事には ー 
 現代の日本人は自分自身の過去については、
 もう何も知りたくはないのです。

 それどころか、教養ある人達は
 それを恥ぢてさえゐます。

 「いや、何もかもすつかり野蠻なものでした」

 と私に言明した者があるかと思ふと、
 またある者は、私が日本の歴史について
 質問した時、きつぱりと

 「我々には歴史はありません、
  我々の歴史は今からやつと始まるのですよ」

 と斷言しました」



 何と情けない當初の文明開化でありませうか。


 これに歯止めをかけた存在こそ明治天皇でした。


 明治天皇は、文明開化が流行し、
 復古の思想などは見向きもされなくなつた
 その時に、敎育を本來の姿に戻されやうとされて、
 果敢な行動を開始されます。


 次回は、その邊についてのことに
 解説させていただきます。


 (これらは解説は勝岡寛次氏の「明治の御代」を
  參考引用させていただいて書いてをります)



 最後に明治天皇の敎育改革に取り組む大御心の溢れた御製を紹介させていただきます。


  國

世はいかに開けゆくともいにしへの
  國のおきてはたがへざらなむ


《歌意》
 世の中がいかに進歩して行こうが、我が國の培つて來た歴史や傅統諸々の掟に違ふ事があつてはならない。