本稿は9月18日の續きです。
http://ameblo.jp/kotodama-1606/entry-11616372667.html 



 

御製に學ぶ日本の心  22               

    執筆原稿



           編著     小 林 隆
           謹撰謹緝  小 林 隆
           發行     傳承文化研究所





明治天皇  (百二十二代天皇) 20



 明治時代


  神の道


千早ちはやぶる神のひらきし道をまた

   ひらくは人のちからなりけり




《歌意》
 遙かな古に、天上世界に居られる
 神々によつてこの國は使命を頂き、
 建國された我國であるが、
 その使命を實現するものは,國民の力で有る筈である。




【解説】

 天皇の御存在とは、
 日本に於ける祭祀の最高存在として
 御存在されてゐるのです。


 その祭祀で祈られることは
 唯々、この世の平安と國民の幸福のみであります。


 それ故に、二千年以上に亙る
 歴史を紡がれてこられたのです。



 明治天皇は、御歴代の天皇と同じやうに
 神祇については、熱心に執り行はれてをられます。


 これは、御父君であらせられる
 孝明天皇より繼承されたものでもあります。




 後に孝明天皇の條に於て
 詳しく觸れさせて頂きますが、
 歴代天皇の中に於かれましても
 特に祭祀に熱心な天皇でした。



 ペリーが來航した際の御姿勢に
 その祭祀への深い御心が表はれてゐます。


 この時期の御製には
 當に祈りの大御歌が數多く詠はれてをられます。


  冬神祇


降雪ふるゆきはよし深くとも神かけて
 いのる心はうづもるるべき
 

 (安政五年)



    祈戀

我命わがいのちあらん限りは祈らめや
  つゐには神のしるしをもみん

 (安政六年)

 


 「明治天皇紀」には、

 安政五年(1858)六月十七日、
 神宮・石清水・賀茂社への奉幣使發遣後、
 奉幣使の歸京復命する25日までの八日間、
 天皇が連日連夜、清涼殿の東庭に下座されて、
 親しく神宮を拜して祝詞を奏されたこと、
 また賢所にて祝詞を奏し、
 親拜(天皇ご自身が親しく拜禮されること)に
 なられたことが記されてゐますが、
 同時に

 「天皇東庭に御拜の間 
皇子(明治天皇のこと)
  亦必ず庭上に侍し給ふ」


 (「明治天皇紀」第二)



 祐宮さちのみや(後の明治天皇)は、
 この時僅かに七歳でしたが、
 十歳の御時に當る文久元年(1861)五月九日にも、
 神宮例幣使の發遣の際の出來事として、
 次のやうな記事が見えます。


 「天皇、是の夜より十六日に至る迄、
 連宵東庭に下御して神宮を遙拝し玉ひ、
 親王亦白衣に袴を 着け、
 朝餉間あさがれいのま西庭に下りて、
 遥拜あらせられるゝこと八夜に及ぶ」


  (「明治天皇紀」第一)



 このやうに、幼少期より明治天皇は、
 御父孝明天皇の御側で、
 その眞劍なお祈りと行を共にされてゐました。


 從つて、かうした父君の姿勢に、
 親王も自然に感化されたのは當然でせう。


 (解説のここ迄勝岡寛次氏著「明治の御代」より、
  引用加筆編輯してゐます)



 この日本といふ國家こそ、
 大きな使命を神より與へられた
 國であるといふのです。


 「神のひらきし道」とは、
 一切が調和のとれた世界の事であります。


 神々によつて定められたる道、

 つまり「八紘一宇(世界を一つの家と成す)」と
 「天壌無窮(天地と共に永遠に續いてゆく)」を
 切り開いて實現してゆくのは
 吾等國民の力である。


 このやうに詠はれてをられます。