本稿は9月15日の續きです。
http://ameblo.jp/kotodama-1606/entry-11614050794.html 



 

御製に學ぶ日本の心  21               

    執筆原稿
 



           編著     小 林 隆
           謹撰謹緝  小 林 隆
           發行     傳承文化研究所





明治天皇  (百二十二代天皇) 19



 明治時代


 
 明治二年 初頭歌

千代よろづかはらぬ春のしるしとて

   海邊を傳ふ風ぞのどけき


      二十歳(明治二年)



《歌意》
 幾千萬年前から變らない春のしるしとして
 海邊から傳はつて來る春風はのどかなことである。




【解説】


 明治天皇が、
 いかにして世界の歴史に於ける
 奇跡といはれた明治維新を
 成就する事ができたのであるか。


 それらは、十九歳で明治維新を迎へての
 不斷の御修練がそこには有つたといへますし、
 更に、明治の元勲達の努力も
 大變なものがあつたと思はれます。



 それを勝岡寛次氏著「明治の御世」より
 窺つて見たいと思ひます。


 以下勝岡氏の文章。





 明治維新の體制への移行は、
 決して順調に行はれた譯ではありません。


 慶應四年(1868)の始めには
 戊辰戦争が勃發して、
 新政府軍と旧幕府軍は
 烈しい内戰によつて干戈を交えたのです。



 その頃に於て、薩摩の大久保利通は
 大阪への遷都を建白してゐます。



*大久保利通




 その建白書の中で次のやうに述べてゐます。


 

「(皇居の外に)一歩もお出になられないと
 考へるほど過度に尊び奉り、
 またご自身も尊大に
 高貴なもののやうに思し召された結果、
 上下が隔絶して今日の弊習となつたのです。

 中略

 仁德天皇の時の事を天下が擧つて
 賞賛し奉つてゐる外でもありません。
 最近では外國に於ても帝王が從者を率ゐて、
 國中を歩き萬民を養ひ育ててゐるのは、
 實に君道を行ふといふべきです(現代語譯)」


(『明治天皇紀』第一より)




 仁德天皇の國見は、
 古代の天皇にはしばしば見られましたが,
 明治の御巡幸は
 この古來の傅統を引き繼がれたものに他なりません。



 この大久保利通の建白が
 功を奏したのでありませう
 五箇條のご誓文の布告から一週間後、
 明治天皇は慶應四年三月二十一日に、
 明治天皇の大阪へ初めての行幸が實現しました。



 この時は、約五〇日間もご滞在なさいました。


 そして、これが、その後何回も行はれる事となる
 明治天皇の行幸と巡幸の最初でした。



 慶應四年九月八日、
 元号が慶應四年から
 明治元年に改元されました。




*明治天皇熱田での稲刈御覽の樣子(明治神宮崇敬会所蔵)





 九月二十日、天皇は京都御所をお出になられて、
 十月十三日にに東京にお着きになりますが、
 途中熱田で農民の稲刈りの樣子を御覧になり、
 大磯の海岸では地引き網を御覽になつてゐます。



 このやうに國民の生業を
 親しく御見聞になるのも,
 これが初めての機會でした。



*明治天皇江戸城遷御(明治神宮崇敬会所蔵)






 明治天皇は
 その後一端京都にお還りになり、
 十二月二十八日、後の昭憲皇太后を
 皇后にお迎えになられますが、
 翌明治二年(1869)三月には再び東幸されます、
 これ以降、天皇は皇城を江戸城に定められて、
 これが事實上の東京遷都になりました。



 明治天皇の御學問と御修養に於て
 大きな役割を果した人物はといふと、
 やはり西郷隆盛を
 第一に擧げなければならないと思ひます。






 明治の宮中改革に於て
 最大の障害となつたものは何かといへば、
 宮中の女官達の存在でした。



 孝明天皇の場合,後宮では
 凡そ五十人の女官が
 天皇の周りを取り囲み、
 日常の世話をしてゐました。



 これでは


 
「朕自ら身骨を勞して
  心志を苦しめ艱難の先に立」



とうとしても、それは無理といふものです。



 そこで明治政府は
 明治四年(1871)八月一日、
 宮廷改革を斷行して、
 これまで天皇の側近に奉祀してゐた
 柔弱な公家や女官に代つて、
 剛毅木訥な靑年士族を採用する事にしました。



 薩摩藩の高島鞆之助や村田新八、
 旧幕臣の山岡鐵太郞(鐵舟)といつた人々です。



 この英斷の斷行を行つたのが
 參議の西郷隆盛でした。



 西郷は、同年十二月十一日、
 天皇の御樣子を次のように手紙で奉告しています。



「色々ご変革に相成った内でも、
 喜ぶべきく尊ぶべきことは、
 主上の御身邊のことです。

 …殊に士族より
 召し出された侍從はご寵愛にて、
 實に壮さかんな有樣です。


 天皇は後宮にいられることは
 至つてお嫌いで、朝より晩まで、
 始終表の御座所に出御あらせられ、
 寸暇も惜しんで漢洋の御學問をされ、
 侍從とお話しにされておられます。


 …一體英邁のご性質で、至極ご壮健、
 最近はこんなにご壮健な天皇はをられなかつたと、
 公卿方も申してをられるほどです。


 乗馬は天氣さえよければ、
 毎日お乗り遊ばされるほどで

 …是非將來は大隊をご自身で率ゐられ、
 大元帥として指揮を取りたいとの御言葉もあり、
 何とも恐れ入り、有難いことと存じます。


 …常日頃から私共にも御前に召し出され、
 同室にて食事をいただくこともございます。

 …君臣水魚の交わりに
 立ち至つたといふことであります」 

  現代語譯 (『西郷隆盛全集』第三巻)




 このように、天皇ご自身が
 女官に囲まれた後宮をお嫌いになり、
 表御座所に出御され、
 侍臣達と寸暇を惜しんで
 御修養に勵んでをられる樣が、
 こゝには活写されています。


 この時期の御製にもまた、
 そんな水魚の交を彷彿させるものがあります。




*明治天皇御進講の御樣子(明治神宮崇敬会)






   逢友述志


きのふけふ長き春日はるひにわれと臣おみ
  昔の書ふみのものがたりして
 


 (明治十一年以前)



引用ここ迄。





 明治の御世に於ける
 明治天皇の英邁さの素地は、
 この時期に益益磨かれて培はれたやうに
 思はれるお話ではないでせうか。