書店で見かけた、松下幸之助さんの「道をひらく」という本をタイトルに惹かれて購入した。
われわれの仕事に通じる言葉にひっかかったのだ。
「まえがき」にこうある。
本書は、PHP研究所の機関誌「PHP]の裏表紙に、これまで連載してきた短文の中から、百二十一篇を選んでまとめたものである。
その一篇一篇は、時にふれ折にふれて感懐をそのまま綴ったものであるが、この中には、身も心もゆたかな繁栄の社会を実現したいという私なりの思いを多少ともこめたつもりである。一国民、一庶民としての私のこの思いが、何らかのご参考になるならば望外の幸せである。
昭和四十三年五月 松下幸之助
実に私が生まれる半年前の日付である。
以降、見開き2ページに収まる短い文章であるが、50年以上前に書かれた言葉が今も色あせていない。
私が偉そうにいうまでもないが、人間の本質は時を経ても変わらないのだろう、と思わせる内容であることがまず驚きだった。
また、半世紀前からするとまさに「ゆたかな繁栄」が現実になりつつある現代社会ですっかり忘れられたのではないかと思う考えもあって、新鮮でもあった。
一気に読む本ではないと思い、毎朝数話ずつじっくりと味わうように読むようにしている。
最初のほうに掲載されている、近年私もなんとなく感じていた、「自然とともに」という文章を転載したい。
現代でもっとも大切なことの一つは、こういうことではないだろうか。(今の若い世代の感想を聞いてみたいものだ)
春になれば花が咲き、秋になれば葉は枯れる。草も木も果物も、芽を出すときには芽を出し、実のなるときには実をむすぶ。
枯れるべきときには枯れてゆく。
そこに何の私心もなく、何の野心もない。無心である。虚心である。だから自然は美しく、秩序正しい。
困ったことに、人間はこうはいかない。素直になれないし、虚心になれない。ともすれば野心が起こり、私心に走る。だから人々は落ち着きを失い、自然の理を見失う。そして、出処を誤り、進退を誤る。秩序も乱れる。
時節はずれに花が咲けば、これを狂い咲きという。出処を誤ったからである。それでも花ならばまだ珍しくてよいけれど人間では処置がない。花ならば狂い咲きですまされもするが、進退を誤った人間は、笑っただけですまされそうもない。自分も傷つき、人にも迷惑をかけるからである。
人間にとって、出処進退その時を誤らぬことほどむつかしいものはない。それだけに、ときには花をながめ、野草を手に取って
静かに自然の理を案じ、己の身の処し方を考えてみたいものである。
【出処進退】その職にとどまるかやめてしまうかという、身の振りかた。