【LIVE考察】ぜんぶ君のせいだ。/ 3/20ツアーファイナル@下北沢SHELTER | 超個人的音楽のススメ。

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※LIVE終演後に書く事を決めたため当日の出来事のディティールが誤っている可能性が御座いますがどうかご容赦下さい。
 また私自身アイドル現場の経験が乏しい故に、現場での見解の相違に関してもご容赦頂ければ幸いです。

2016年3月20日、 ぜんぶ君のせいだ。「やみかわIMRAD」 東名阪ワンマンツアーファイナル@下北沢SHELTER。
それはぜんぶ君のせいだ。という5人の少女達が、探し求めていた自分の死に場所を見つけた夜だった。

名古屋、大阪、東京の主要三都市を回る、ぜん君。にとってキャリア初となるワンマンツアーとなった今回。
早々とソールドアウトした地元・名古屋での公演に比べ、ソールドは公演日ギリギリ直前となった東京での公演ではあったが、
それでも彼女達に対する期待値故か、当日公演、会場となった下北沢SHELTERは開演の30分も前にも関わらず新旧ファンが入り乱れ、既にパンパンの状態だった。ある程度は予測していたが、女性ファンの多さに改めて驚かされた。

そして開演。決まりのオープニングSEである心電図の心音と共に「ぜんぶ君のせいだ…」という呪言の共鳴が始まるとフロアが湧き始める。そして心音の停止を伝えるフラット音が鳴り響くと同時にメンバー全員での「ぜんぶ君のせいだ!!」という悲鳴にも似た叫びが会場に轟いた。ワンマンツアーファイナルの幕が上がったのだ。
一曲目、デジタルなエフェクトとサークルモッシュを促すサビのフリが印象的なロックナンバー『うぇゆうぇゆうぉっ~ヒネクレノタリ~』で早くもフロアの熱量が螺旋状に上がり始める、この曲がLIVEではまだ数回しか披露されていない事実が信じられない程だ。続くデビューシングルにして全楽曲中最大のアタック値を誇る打ち込み系ロック『ねおじぇらす✡めろかおす』で遂に会場のボルテージは最高潮に。モッシュやリフトが次々と起こり始める。と、ここで経験値の浅さ故か本人達の立ち上がりの遅さが若干気になったものの、それを補い、彼女達を牽引するかのように怒号にも似たミックスでフロアの熱量を更にブチ上げていく患い達。そしてそれに呼応するように「お前らもっと声出せんだろ!」と自分達をも鼓舞するような発破で、徐々にパフォーマンスの強度を掛け算的に引き上げていく彼女達。その光景にはぜん君。と患いを繋ぐ絆にも似た信頼性を感じられ、思わず温かい感情が溢れた。


フロアに迸る熱量をそのままに『患いハレルヤ』、メロディアスなミッドチューン『哀whynot』へと繋いでいく。
そして『ぼっちコネクト終』、『弱虫ララバイ』とラインナップの中でもアイドル純度が高いポップナンバーを連続で披露。
MCらしいMCを一切挟まず、想いは全てパフォーマンスに託すかのように彼女達は休む間もなく楽曲を紡いでいく。
ここからは一転しロックなナンバーが続く、コテコテのメロスピをアイドルPOPに落とし込んだナンバー『The Battle of Identerror』から、LIVEで屈指の盛り上がりを誇る高速ハードコアチューン『ShitEndプラシーボ』へ。ザクザクと刻まれるリフにファストなビート、ヘドバン必至な強烈ブレイクダウンと全楽曲中最強の攻撃力を誇るサウンドに乗せ、淡々と語られる低体温のポエトリーリーディングがソリッドで異質な空間を生み出していく。そして楽曲の終盤に、満を持して搭載された十字(もげき あざ)の「Kiss me no say…!!」というシャウトがその圧倒的な衝動性でその空間を切り裂いていく様は何度観ても痛快だ。字(あざ)が持つグループ随一のポップなキャラクター性とのギャップがカウンターパンチのように炸裂する瞬間である。


そしてここから、このワンマンツアーの最大の見所でもあるバックバンドを背負ってのパフォーマンスがようやく始まる。
(実際に現場では何処からがバンド編成かの説明も一切なく、せめてバンドを招き入れるくだりはあるだろうと思っていたが、
それも裏切られた、曲終わりでいつの間にかバックバンドは板付いており、気付けばバンド編成に突入していた。)
嫌でもバンド編成への期待値が上がっていた最中、『ヤンデレクイエム』冒頭の「ころす!」を合図に唐突にそれは始まった。バックバンドが放つ生のグルーブをその華奢な背中に受け、纏った熱量と共に凄まじい音塊となって会場を一気に支配する彼女達。その質量の膨大さはやはりオケの時と比べ段違いに圧倒的で、打ち込み系ではあるがロック色が強く元々バンドサウンドとの親和性が高かったぜん君。のサウンドプロダクションは、やはりと言うべくその然るべき本来の姿を此処に晒して見せた。その後も『Hello Kiss me No say』『やみかわぐんぐんか』と続くのだが、他にもバンド然としたロック色が強いナンバーがあるにも関わらず、軸をポップに振ったナンバーを中心にバンド編成で披露してみせたのは個人的に意外だった。おそらくは敢えてのこの布陣である事は言うまでもないので、無粋な思索と言及は控えておく、として。
とにもかくにも時間にして僅か約40分、時計を見て驚いた、まさかの40分弱、ワンマンLIVEにしても短過ぎる刹那の
時間を、彼女達は最大限の膂力を以て走り抜け、なんとも呆気なくその幕を下ろしたのだった。


しかしながら、まだ終わらない。語弊を承知で言えば、この夜の奇跡はこのアンコール以降から始まったのだ。
細かく言及するとぜん君。のアンコールはある意味特殊な環境下から始まる。LIVEというイベントが始まった当初とは違い、現在はワンマンLIVEであればアンコールがあるのは最早周知の事実であって、当然アンコールありき総合演出が組まれる。それ故に本編が終われば、その流れでの、言わば予定調和でのアンコールが始まるわけなのだがぜん君。はそこから違う。まるでここからは自分達の段取りであるかの様に、フロアにいる約一名が場を仕切り直す。(この1名は現場で決まる?)患いの皆はそれを知っているので、その仕切り直しがあるまで誰もアンコールをしないし、いざ仕切り直されれば全員でアンコールを叫ぶ。どういう経緯でこのアンコールのシステムに辿り着いたかはLIVEに関しては年始から参加の私には恐縮ながら不明だが、しかしながら往年の予定調和感の強いアンコールとは違い、フロアのファンがLIVEを仕切り直し、アンコールという形でゲストを再びステージに引き擦り出すという形は感覚で言う所の昔のアンコールに質感が近いシステムとなり得ている。そして今回はそのアンコールを仕切り直すまでが異常に長かったのだ。仕切り直さない私がこういった形で言及して誠に恐縮であるが、恐らくこの日が初ぜん君。現場となった新規の諸君にとってアンコールが数分に渡って起こらない事に戸惑いを覚えた事だろうと思う。


画して無事仕切り直され、ステージに舞い戻って来たぜんぶ君のせいだ。のアンコールが始まった。攻撃的なシンセとしなやかなピアノが絡む躍動的なリフが印象的な人気曲『キミ君シンドロームX』で再びフロアに火種を放ち、一体感を練り上げていく。それにしてもこの楽曲の最後のフレーズ「キミの世界にわたし…「いないんだよね?」」に対する「いるよー!!!」という合いの手がいつ聴いても最高で、もしも何処かに自分の存在意義を否定して「私なんてこの世界に必要ない」なんて思っている人がいたら是非ぜん君。の現場に来て欲しい。ここには理屈抜きで君の存在を全肯定してくれる人間が沢山いる。


その後も『拝啓、おとなグラム』『痛カルマバ◯ス』とまだフィジカル化こそしてはいないが、LIVEでは既に定番となっているエモーショナルなナンバーを繋げていく彼女達。そしてこのワンマンツアーのファイナル公演という記念すべき日のラストナンバーを飾ったのが、彼女達の現在地を鮮明な切り口の歌詞と叙情的なサウンドで音像として克明に体現してみせたエモーショナルロック『無題合唱』だ。この楽曲の直前にリーダーである如月愛海はフロアにいる全員に向けて「隣にいる人と手を繋いでください」と言う、最後の楽曲の直前にして初めてMCらしいMCを行うのだ、それがまたニクい。そして叙情的なピアノのイントロと共に『無題合唱』が始まった。アタックが強い他の楽曲と異なり、湧き上がる感情のように徐々に立ち上がっていくエモーショナルなメロディーと歌詞が象徴的なこの楽曲が描き出すのは、自分の直ぐ隣にいてくれる誰かの大切さ、そして彼女達がぜんぶ君のせいだ。として手を取り合った今の風景だ。元々ぼっちで引きこもりであった彼女達はぜんぶ君のせいだ。を結成し、それぞれの孤独を埋め合わせた。そして活動の中で多くの患いと出会い、愛を受け取り、遂には独りではなくなった。隣にいてくれるからこそ手を繋げる、それを直接的な手段でダイレクトに伝える為に彼女達はフロアの人間に手を繋がせるのだ。隣にいるのは例え知らない誰かだとしても、手を繋げばもう独りではなくなると、そう信じて。
そして落ちサビで「キミの手の温もり こんなに覚えてるのに どうして どうして 時よ止まれと」と、いつか訪れる必然の別れを憂い切々と祈る様に歌うましろの姿は、その希薄な存在感と相俟って、戦場に咲く一輪花の様に凛と揺れていた。
この『無題合唱』はそんな彼女達だからこそ歌える楽曲であって、だからこそ途中から本当に感極まって泣いてしまうのかもしれない。願わくば、この曲はこれからもずっと彼女達のラストナンバーであり続けて欲しいと、そう思った。


泣きながらも『無題合唱』を歌い終え、その激動の時間を走り切り、感動のフィナーレを迎えたかと思った、が違った。
まさかのダブルアンコールが起きたのだ。しかも先ほどの静寂が長かったアンコールとは違い、若干食い気味だ。
その鳴り止まないダブルアンコールの声に彼女達も「え、無いよ、無いよ」と戸惑う、それはそうだ、私も戸惑っていたし、
おそらくダブルアンコールを起こした当の本人でさえも期してそれを発したわけではないだろう、それくらい事故めいたものだった。そしてPAの臨機応変でありながらも、確信犯的な対応によってダブルアンコールの匙は投げられた。
『ねおじぇらす✡めろかおす』のイントロが鳴り始めたのである。
ハプニング的に、そして半ば強制的に始まったダブルアンコール『ねおじぇらす✡めろかおす』では、ダンスも歌も全部投げ出すかのようにメンバー全員が最前まで出てきて、泣きながら「大好きだ!」「愛してる!」とフロアにいる全ての患いに向けて剥き出しの感情を叫び続けていた。これはあくまで私の憶測と、願わくばそうであれという希望を込めての見解ではあるが、あの姿はアイドルとして背負いこんだ業のその全てを脱ぎ捨てた彼女達の本当の想いだったのだと思う、あの時彼女達はぜんぶ君のせいだ。として、そして彼女達一個人として、爆発的に溢れ出た想いを、赤裸々に叫んでいたのだ。彼女達は最後の最後でこれまでの道程で受け取った沢山の愛を、今の自身が持つ最大の愛する手段で返してみせた。本当の意味で、愛が再び託された瞬間だったと思う。楽曲終了後に、堰き止められない想いと共にその涙の堤防が決壊し嗚咽を上げて泣き出した成海5才(なるみごもち)の姿がその愛の大きさを顕著に表していたように思える。


流石にこれは涙無しでは観る事は出来なかった、それ位彼女達の想いが溢れていたし、涙にも言葉にもそれ以上の価値があった。予定不調和然とした予定調和のアンコールによって、作り手からは全くの不確定要素である患い達の介入によって引き起こされた予定不調和の奇跡。バックバンドもPAも照明も段取りもその全てが予定不調和だったダブルアンコール、しかし、だからこそあの場所、あの瞬間には、予め決められた演出の域を超えた場所で動き出した物語が、確かに在ったのだ。


広い世界から見れば精々300人の前で起こった小さな事かもしれない、語り継ぐには余りにも小さな光なのかもしれない。
しかしあの夜、あの場所で偶発的に生まれたあの瞬間だけは、きっと奇跡であっていいと、勝手ながらも私は思う。


結成して1年にも満たないような刹那の時間を、止まる事無く駆け上がってきた彼女達が観た景色にきっと嘘は微塵も無い。その短い命を惜しむ事無く燃やし続け、決死の思いで辿り着き、ツアーファイナルの地で勝ち取ったあの景色。
まぎれもなくそれは…ぜんぶ君のせいだ。が確かに此処に生きていたという存在証明に他ならないのではないだろうか。


ぜんぶ君のせいだ。として生きた証を刻み始めた彼女達は、ぜんぶ君のせいだ。として死んでいく。余りにも刹那的であったこの夜に巻き起こった衝動は、始まりと同じくしていつか来るその終わりも描き出していた。私にはそう思えて仕方なかった。


おそらくこれから彼女達は、これまで以上の凄まじいスピード感でそのステージを日本中に拡大していくだろう。
時代の最先端を射るようなエッジーなサウンドに、キュートでカラフルなビジュアル、そしてその奇抜なキャラクター性。
女子ウケが期待できるパッケージ感と、それを裏切るようなバンド然としたパフォーマンスのギャップが孕む中毒性は、
ジャンルや性別を問わず次々と多くのファンを獲得していくはずだ。
そしていずれ彼女達が巻き込まれるであろうシーンの奔流の中では、彼女達の本質とは異なる言葉や思惑が飛び交うだろう。
彼女達を取り囲む環境も大きく変わっていくだろうし、もしかすれば彼女達の声を直接聞く機会もなくなるかもしれない。
仕方のないことだが、今此処にある全てが変わっていくかもしれない。


だからこそあの夜、あの場所で、彼女達の本当の姿を目撃し、最大の愛を託された「君」には忘れないでいて欲しいのだ。
ぜんぶ君のせいだ。という歪な絆で結ばれた5人がこの世界で確かに生きていた事を。
彼女達が背負うその名の通り、目撃者として、共犯者として、立証者として、その存在証明の全てを託された「君」には
覚えておいて欲しいのだ。あの夜の彼女達の姿を、彼女達の言葉を、彼女達の涙を。


ぜんぶ君のせいだ。「やみかわIMRAD」リリース東名阪ツアー~やみかわぐん宣戦布告です。~ファイナル@下北沢SHELTER
アイドルとして生きる事を決めた5人の少女達の存在証明と、死に場所が此処にはあった。



P.S.この中で個人としてその振る舞いを描写しなかった、一十三四(ひとみ よつ)であるが、個人的にその表情や仕草に
初期のPerfumeのっちに近いものを感じる事もあり、今後ぜん君。のキーマンに成り得る潜在能力をひしひし感じ
ている。果たしてそれが事実となって日の目を見るのは、また少し先の話しである。