韓国からEちゃんがやってきた。
Eちゃんは日本語学習暦1年。
でもほとんど、会話には困らない。
たった1年で…
韓国や中国で、日本語がどう学習されているのか
私は本当に不思議。
「最初に何を学ぶの?」とたずねれば
必ず彼らは「ひらがな」と言う。
まぁそれは想像の範囲。
私が知りたいのは、その先だ。
でもなかなか、その先の学習法が見えてこない。
漢字を200~300回書いて覚えた!とか
日本語と韓国語は基本的な文法は同じだけど
日本語はあいまいな表現が多いから難しい!とか
そういう話は聞けるのだけれど…
ただ、ひとつ彼女が言ったことで印象的だった言葉がある。
「韓国では日本のドラマやアニメがたくさん流れていますから
日本語はよく耳にします」
そして彼女のような日本語学習者じゃなくても
そのおかげで日本語が堪能な友人が多いらしい。
うーん…これ、以前聞いたスウェーデンやエリトリアの英語環境と似ている。
やっぱり “普段から自然にたくさん耳にすること”
そして “好き” が、まず大切なんだな~。
それにしても“あいまいさ”って、微妙。
日本は『あいまいの文化』だと言われている。
言わんとしていることは、私もわかる。
でも『言語表現』としてみたとき
日本語は本当にあいまいなのかな?
彼女が、どの文法を指して“あいまいさ”を感じたのかはわからない。
だからこれは全然違うかもしれないのだけれど…
日本語を母国語として使っている私たちは
普通に区別して使っている言葉に対して
『あいまいさ』なんて感じていないように思う。
例えば文章構造。
基本的に日本語は『主語~修飾語~述語』。
「私は昨日、公園に行きました」
でも必ずしもこうはならないことだってある。
「私行ったよ、昨日。公園に」
これを私たちは自然に使い分けている。
どちらもアリ。
でもこれによって「日本語の文法はあいまいだ」とは思っていない。
ではこれは、日本語でしか起こらない表現なのか…?
答えは否だ。
こんな表現、他の言語でもいくらでも起こる。
ネイティブの話すナチュラルな言葉は、教科書とは違う。
基本は基本としてあっても、
会話になると教科書のように話すことなんてほとんどない。
ということは
うん…
ルールがあるようでないような感じだからこそ、
あいまいさを感じるのかもしれない。
それをすべて“勉強”して“理解”しようとするのは
それはそれは大変。
まるごと「そういうものだ!」と受け取っちゃって
使っているうちに身についていく…
なんていう方が、やっぱり楽だし自分のコトバになるんだろうな~。
それには溢れんばかりのコトバの環境が必要だけれどね。
そういえばオーストラリアで一人旅をしていたとき
イギリス人夫婦に言われた。
「ひろこと喋ってると、いかに普段自分たちが
崩れた英語を話しているのかがよくわかるよ」
そういうことね。