ボランティアしたことある? | 柴犬虎哲の部屋

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パパは、阪神淡路大震災の時、
ボランティアしたよ。

 

1995年1月17日、阪神淡路大震災で西宮市にあった
叔母の家が全壊し、
直後に親戚一同の男連中で、
貴重品などの掘り出しに行きました。
過去にもアップした内容の加筆ですが、そ
の時の様子です。
 
震災当時、我が家は守口市で暮らしていて、
まだ と虎哲の父の元也号も生まれる前でした。

5時47分の地震の瞬間、
震度5の激しい揺れで飛び起きました。
幸い我が家に人的被害はありませんでしたが、
風呂場の壁が一部崩れてました。
寝ていた私の布団の上には、
積み上げていた
スタートレック とプロレスのビデオが崩れて来て、VHSテープの海に埋もれ、これをまたタイトル順に整理するの大変やんなどと気楽な事を考えていました。

ようやく日があけて、被害の状況が明らかになるにつれ、
尋常でない状況に身が震える思いでした。

当時私は、京都市にある同志社大学の
系列中学高等学校に勤務しており、
限定ダイヤながら関西の鉄道で唯一運転していた
京阪電鉄 で、職場の様子を見に行きました。

京阪 は普通列車のみの運転で、制限速度を大幅に落として運転し、普段の倍近い通勤時間がかかりました。

京都市の学校には被害は無く、
阪神間に住む生徒にも人的被害はありませんでした。
しかしながら、家が全壊し避難所暮らしになった生徒、母親が家の下敷きになって亡くした生徒がいた事を後に知りました。

この日から3日間、学校は臨時休校になりました。

阪急もJRもストップした中、再び
京阪電鉄 で自宅に戻りました。

両親によると、西宮市甲陽園に住む母の姉一家と全く連絡が取れないとの事です。
甲陽園は震度7の地域です。

阪神高速神戸線が倒壊し、国道2号線は麻痺的な大渋滞との報道です。
阪急神戸線、阪神電鉄、JR3社共、
高架橋が倒壊しストップしています。

私は、当時乗っていたRG50Γというバイクで急遽様子を見に行きました。
尼崎のあたりまでは、大きな被害は少なかったですが、武庫川を越え、西宮市に入った途端、風景は一変しました。
あちこちで木造家屋が倒壊していました。

甲陽園の叔母の家は全壊していました。
叔母は当時癌で入院中で自宅におらず無事でしたが、
叔父が家の下敷きになり、ご近所の方に救助され、
自家用車で救急病院に運ばれたのでした。
肋骨を数本骨折しましたが、幸い命に別状はありませんでした。

叔母の家には外飼の雑種のワンコがいましたが、幸い犬小屋は間一髪で家屋倒壊の下敷きから免れ、ワンコは無傷でした。
ワンコはブルブル震えていたそうです。
ワンコはその後、叔母の娘、つまり私の従姉妹が引き取って行きました。

震災2日後、再び叔母の家に親戚の男連中全員で行きました。
西宮北口まで運転再開された阪急で行き、そこから甲陽園まで徒歩でした。
途中、阪急の高架橋が完全に倒壊していました。
あちこちで家屋が倒壊しており、泣きながら家の前で立ち尽くしいている方を大勢見ました。

叔母の家へ再び行った目的は、瓦礫の山を掘り出して、現金や通帳など貴重品を見つけ出すためです。
私、足を釘で切って出血しつつ、数万円入った財布を見つけ出しましたよ。

東日本大震災の時もそうですが、こういう状況下で火事場泥棒やる人間の最底辺がいたのです。
だから親戚一同の男衆に動員がかかったのです。

あれから25年、叔父は別の病気で数年前にこの世を去りました。
叔母の家もすっかり建て替えられましたが、叔母も3年前に他界しました。
従姉妹が引き取ったワンコも、ずっと前に虹の橋を渡ったそうです。

被災地は一見完全に復興したように見えます。
しかし、今も震災の後遺症で身体的、精神的、経済的、社会的に苦しんでいる人たちが大勢おられる事を、決して忘れてはなりません。

明日は東日本大震災から満十年。
まだまだ風化させるには早すぎでしゅよ。