信仰コミュニティーのよさと恐ろしさ | Kotenjiのブログ

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後天時代の本当の意味と価値を理解し、ふさわしい生き方をしたい。
正午定着、影のない時代と言われているが...

もちろん同じ神を信ずるコミュニティーにいれば、異なった神を信ずる立場の人に対するのと比べれば、お互い心を許し、心を開いて、遠慮なく、気兼ねなく、心の奥深い世界に至るまで深く交わることも可能かもしれません。そういう交わりからお互いに深く理解しあい、励ましあい、刺激しあうこともできるでしょう。夜をふかして理想を語り合うこともあるでしょう。

そういうコミュニティーでは、お互いにために生きあう実践により、心の成長ができるチャンスもあれば、神との深い出会いや、交わりなどを互いに共有しながら、恩恵を交換し合い、霊魂の成長を実感することもできるでしょう。

しかし、いったんたがが外れると、大変なことになる可能性もあることを体験するようになりました。つまり、いったんある人々を、どのような理由やどのような根拠によるにせよ「背教者」扱いにするという決定が上部でなされ、その方針が各レベルの指導者たちによって遂行され始めた場合のことです。

しばらくすると、コミュニティー内の全ての言論は、その上部における決定を支持するもののみが幅をきかせるようになり、そうでないものは徹底的に非難され、こきおろされ、その「背教者」という烙印を押されるようになった人々は、階層の低い市民のように扱われ、孤立させられる方向になります。その子どもたちに対する扱いは無慈悲なものです。

そのような気違いじみた状況を避ける道は、コミュニティーの構成員が、状況を「客観的に」見る能力があるかどうかにかかってきます。原理の言葉でよく「神の立場に立って見るように努力せよ」といわれましたが、私は今まで、「神の立場」の重要な要素は「公平な立場」即ち「客観的な立場」、あるいは「親の立場」であると理解してきました。

今の統一教会のコミュニティーを見ると、「郭グループ」という名をつけられた人々に対する扱いは最悪です。信仰共同体の最も恐ろしく醜い側面を提示しています。一方でそのような醜い実践をしている同じ人々が、別のほうで「真の愛」をいくら叫んだところで全く説得力がありません。典型的な「偽善」の実践がそこにあります。

おそろしいことは、その「背教者」に対する無慈悲な扱いをしているその当人が、全くその自覚がなく、自分は正しいことをしており、愛の実践をしている、と信じ込めるところです。つまり、自分のしていることを客観的に見る能力がゼロになるのです。これが信仰コミュニティーの恐ろしさであり、その延長上には神様のためと言って平気で「背教者」たちを火あぶりにする実践が待っています。何も中世の時代の魔女狩りをした人々がとくに邪悪な人であったというわけではなく、同じ人間だったということを知るようになります。

後天時代における人間の責任分担には、この「客観的な立場」を守るということも入っていると思います。


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