北陸の震災で被災されました方々に、心よりお見舞い申し上げます。
1日も早く日常が戻りますように。
できる範囲で、復興支援を続けていければと思います。
一月末には、地元のお寺さんの方々が駅前で募金をされていました。
2号と共に少しですが…
東日本大震災から、13年。
実家の母が祖母との暮らしで疲れたと、関東圏の我が家に泊まり続けていた頃。
祖母は100歳手前で、体も精神も問題なく、耳が遠く補聴器が必要なぐらいで。
とはいえ、老人特有な歩くのもゆーーくりだし、お昼寝をしてしまい、夜には寝つくなくなるような感じでした。
介護らしい介護はしていなかったのですが、母は息が詰まったのか「助けて」と…
いつも我儘な事ばかりなので、話半分で聞いていました。
精神科にかかり希死念慮があるから、私を見張って欲しいと言って来たのです。
出来るなら、祖母を引き取りたかった…
「医師が」「希死念慮」の言葉に、一時的な母の同居を夫に頼みました。
夫も私も同居して、「希死念慮」を全く感じませんでした。
いつも自分に注目して欲しい人なので、関東圏に戻った孫と会えなかったのもあり、大げさに言ったのでは?といまだに思っているのです。
我が家には子どもの物ばかりだし、都内と違い何もない土地でつまらなかったはず。
あ、お散歩によく出て「ほんと、何も無いのね。」て言っていました!
母も高齢者の域なので、祖母は普段から介護保利用者でした。
宿泊施設に短期的に利用し、母は我が家へやって来ました。
来てから1週間ほど、あの3.11。
私はいつも通り、2号の幼稚園へ。
放課後のスポーツ教室の日で、お迎えに行かなくてはなりません。
時間まで向かいのショッピングモールで買い物をと入って、すぐに眩暈がしました。
10年ぶりの実母との生活は、思った以上に大変。
我儘をワガママと思っていない人なので、夫も私も疲れていました。
だから、くらっと来て、ヤバい!とカウンターに捕まりながら上を見ると…
ぐわんぐわん目が回る〜
ん?天上の照明や看板が揺れて、今にも落ちそう。
まずい!
目眩じゃないぞ!
と、幼稚園にダッシュ💨💨
プルル
ママ友二人と私のスマホが鳴りました。
みんな夫からの無事の確認でした。
お一人だけ鳴らず、激おこ
なんて話していたら、数度大きめの地震があり、コーチから終わりのお話がありました。
その段階で夫とは通話もメールも出来なくなっていました。
2号と帰宅すると、母は興奮気味。
マンションは5階で相当揺れたようで、必死に大型テレビを押さえたそうです。倒れないジェルはしていましたが、実際どうだったのか?
1号はいつもより早い帰宅でしたが、通常通り公共機関で帰らされました。
防災頭巾もつけずに!
関東圏では当たり前の防災頭巾、着けさせるのも忘れるほど学校もパニックだったのでしょう。
翌年から、親の引き取り訓練が行事に追加されました。
夫は、会社から「役職者は皆が安全に帰宅できるよう最大限の配慮をするように」と通達がすぐに入ったそうです。
車通勤で、前日にガソリン満タンにしていたのが幸いでした。
社員の車に派遣さんなど数人ずつ送って、帰宅したのは夕飯の頃だったと思います。
オール電化の分譲賃貸マンションだったので、キッチンやお風呂は大変でした。
電気は輪番で、毎日通電時間が違いました。
カセットコンロを遠くの親戚に送ってもらい、給食がストップした1号にお弁当を作ったり。
数日後には実家に帰るはずだった母は、その後JRが開通や高速道路の再開、スーパーなどの通常営業までは我が家に残ることになったのです。
母は興奮状態で、「歩いても帰る!」と言いだしました。
JRが動いていないと話すと、「線路沿いに歩けば」と言いだす始末。
何時間かかるとか、考えていないし。
余震も続いていたのに、です。
現実的ではないと、夫から話してもらいました。
夫や私のキョウダイの話は聞くのですが、私の話は聞きません。
毎日毎晩、あの津波や避難所の様子を観て、誰もが疲れていたと思います。
余震は、「明日は我が身」とも感じたはず。
なのに… 母は実家が心配で帰りたいと…
結局、高速道路が再開してから、夫の車で5人都内へと向かいました。
母は我が家に3ヶ月も滞在していた事になります。
その日まで、母を納得させる為にキョウダイが実家を見に行き、報告の電話を来れました。
家の中は思ったよりは被害が無かったのですが、飛び散った食器や倒れかけた棚など直してくれたのです。
母「あのオーケストラは?」
大事な磁器のお猿のフィギュリンは、割れていました。
後日、元通りに接着する作業に没頭したようです。
預けられていた祖母は、震災から数週間後に老衰で亡くなりました。
たまたま数日実家に戻っていた日に、ホームを訪れた母。(我が家と行き来していました。)
顔を合わせると祖母が「帰りたい」となるので、小窓から見るだけでと職員に言われたそうです。
帰宅後、さっきまでいたホームから急変のお電話が。
祖母が息を引き取るその瞬間には間に合ったのは、母だけ。
私達は連絡をもらってから向かうも、間に合わないだろうと。
祖母は、よく言っていました。
関東大震災も戦争も、二・二六事件も体験して来た人。
「孫は可愛い。ひ孫はもっっと可愛い🩷」
「まさか抱けるとは。可愛いねぇ〜。」
2号は5歳まで可愛がってもらったのです。
少しは幸せを感じて貰えたのなら、良かったなぁと思っています。
我が家もあの震災がなければ、
何か違っていたのかも…