3.11 あの日 | 子ども1号2号と夫とわたし

子ども1号2号と夫とわたし

私大理系4年生①号と附属上がりの私大文系1年生②号との生活をメインに。

パパは、ママ孝行を開始!
地方で国立小のお受験して、東京で中学受験して、ついに最後の大学受験・内部進学まで来ました。

北陸の震災で被災されました方々に、心よりお見舞い申し上げます。

1日も早く日常が戻りますように。

できる範囲で、復興支援を続けていければと思います。

一月末には、地元のお寺さんの方々が駅前で募金をされていました。

2号と共に少しですが…




東日本大震災から、13年。



実家の母が祖母との暮らしで疲れたと、関東圏の我が家に泊まり続けていた頃。

祖母は100歳手前で、体も精神も問題なく、耳が遠く補聴器が必要なぐらいで。

とはいえ、老人特有な歩くのもゆーーくりだし、お昼寝をしてしまい、夜には寝つくなくなるような感じでした。


介護らしい介護はしていなかったのですが、母は息が詰まったのか「助けて」と…

いつも我儘な事ばかりなので、話半分で聞いていました。

精神科にかかり希死念慮があるから、私を見張って欲しいと言って来たのです。

出来るなら、祖母を引き取りたかった…

「医師が」「希死念慮」の言葉に、一時的な母の同居を夫に頼みました。

夫も私も同居して、「希死念慮」を全く感じませんでした。

いつも自分に注目して欲しい人なので、関東圏に戻った孫と会えなかったのもあり、大げさに言ったのでは?といまだに思っているのです。

我が家には子どもの物ばかりだし、都内と違い何もない土地でつまらなかったはず。

あ、お散歩によく出て「ほんと、何も無いのね。」て言っていました!



母も高齢者の域なので、祖母は普段から介護保利用者でした。

宿泊施設に短期的に利用し、母は我が家へやって来ました。



来てから1週間ほど、あの3.11。

私はいつも通り、2号の幼稚園へ。

放課後のスポーツ教室の日で、お迎えに行かなくてはなりません。

時間まで向かいのショッピングモールで買い物をと入って、すぐに眩暈がしました。


10年ぶりの実母との生活は、思った以上に大変。

我儘をワガママと思っていない人なので、夫も私も疲れていました。

だから、くらっと来て、ヤバい!とカウンターに捕まりながら上を見ると…

ぐわんぐわん目が回る〜



ん?天上の照明や看板が揺れて、今にも落ちそう。

真顔まずい!

目眩じゃないぞ!

と、幼稚園にダッシュ💨💨


プルルピリピリ

ママ友二人と私のスマホが鳴りました。

みんな夫からの無事の確認でした。

お一人だけ鳴らず、激おこおいで


なんて話していたら、数度大きめの地震があり、コーチから終わりのお話がありました。

その段階で夫とは通話もメールも出来なくなっていました。



2号と帰宅すると、母は興奮気味。

マンションは5階で相当揺れたようで、必死に大型テレビを押さえたそうです。左差し倒れないジェルはしていましたが、実際どうだったのか?


1号はいつもより早い帰宅でしたが、通常通り公共機関で帰らされました。

防災頭巾もつけずに!

関東圏では当たり前の防災頭巾、着けさせるのも忘れるほど学校もパニックだったのでしょう。

翌年から、親の引き取り訓練が行事に追加されました。


夫は、会社から「役職者は皆が安全に帰宅できるよう最大限の配慮をするように」と通達がすぐに入ったそうです。

車通勤で、前日にガソリン満タンにしていたのが幸いでした。

社員の車に派遣さんなど数人ずつ送って、帰宅したのは夕飯の頃だったと思います。


オール電化の分譲賃貸マンションだったので、キッチンやお風呂は大変でした。

電気は輪番で、毎日通電時間が違いました。

カセットコンロを遠くの親戚に送ってもらい、給食がストップした1号にお弁当を作ったり。




数日後には実家に帰るはずだった母は、その後JRが開通や高速道路の再開、スーパーなどの通常営業までは我が家に残ることになったのです。


母は興奮状態で、「歩いても帰る!」と言いだしました。

JRが動いていないと話すと、「線路沿いに歩けば」と言いだす始末。

何時間かかるとか、考えていないし。

余震も続いていたのに、です。

現実的ではないと、夫から話してもらいました。

夫や私のキョウダイの話は聞くのですが、私の話は聞きません。



毎日毎晩、あの津波や避難所の様子を観て、誰もが疲れていたと思います。

余震は、「明日は我が身」とも感じたはず。

なのに…   母は実家が心配で帰りたいと…

結局、高速道路が再開してから、夫の車で5人都内へと向かいました。

母は我が家に3ヶ月も滞在していた事になります。


その日まで、母を納得させる為にキョウダイが実家を見に行き、報告の電話を来れました。

家の中は思ったよりは被害が無かったのですが、飛び散った食器や倒れかけた棚など直してくれたのです。

母「あのオーケストラは?」

大事な磁器のお猿のフィギュリンは、割れていました。

後日、元通りに接着する作業に没頭したようです。



預けられていた祖母は、震災から数週間後に老衰で亡くなりました。

たまたま数日実家に戻っていた日に、ホームを訪れた母。(我が家と行き来していました。)

顔を合わせると祖母が「帰りたい」となるので、小窓から見るだけでと職員に言われたそうです。

帰宅後、さっきまでいたホームから急変のお電話が。

祖母が息を引き取るその瞬間には間に合ったのは、母だけ。

私達は連絡をもらってから向かうも、間に合わないだろうと。



祖母は、よく言っていました。

関東大震災も戦争も、二・二六事件も体験して来た人。

「孫は可愛い。ひ孫はもっっと可愛い🩷」

「まさか抱けるとは。可愛いねぇ〜。」

2号は5歳まで可愛がってもらったのです。

少しは幸せを感じて貰えたのなら、良かったなぁと思っています。



我が家もあの震災がなければ、

何か違っていたのかも…