ハワイ滞在中は
Kさんと毎日通ったというカラオケ店に連れて行かれました。
写真が無いのが今となっては残念ですが。。
Kさんはテレサテンが好きで毎日歌っていたとか。。
私も歌ってあげると。。
「もったいないなぁ。。やめてしもうて。。」
と関西弁の父。。
そしてママの遺言の話になる。。
私も負けじと。。
「あんなん子供の頃からのママの洗脳やん。。ほんまは何になりたいんかずっと分からず仕舞いや。。」と言うと。
「あなたの歌には銭がかかってまんがな。。」と父。。
「ハワイと違うて、バリ島やったら生バンドで聞かしてあげられるのになぁ」と言って、いつも私が行きと帰りの定宿にしていた安コテージでも生バンドが入っていて、一度はオランダ人医師夫婦と歌合戦になった事などを話すと。。
「今度はバリ島に行きましょ。」と父は言っていた。。
空港ラウンジでで乾杯。
帰国便の機内食。。
帰国して、日本に居ても
「カラオケは良く行きました。」
その度に「ママの遺言が。。」と言いながら母が好きだった「霧の摩周湖」を歌う父は泣いていた。
今思うと、本当に私の母は罪な事をしてくれたとしみじみ思う。
母と私を重ねる父。。私ではダメだったのだとつくづく思う。。
親子の宿命ってあるのね。。父と私は同士だから。。
しかし、この時の私は同士だと気づいてあげられなかった。
この4年、父と会わなかった私は、その間に実務で国家試験を受ける権利を得ながら試験を令和2年に受け、介護福祉士になり、父に出来ない事を他人様にする事で、父には良い介護士と巡り合ってくれることを願っていた。その間、私は何度も記憶を辿って、同士だと気づいてそれを文章化した2日後に父の訃報を知った。。
88歳、持病があって、コロナを一度は克服しようと「エクモ」無しで回復しかけたと聞いた。。
それは。。父は私が気づくのを待っていたと思えてならない。
↑に対しての追記
2024年4月9日
父が気づいてほしかったのは。。
それは父の青年期の無念ということ。。
誰かにわかってもらいたかったという気持ち。。
私には手に取るようにわかる事。。
顕在意識ではそれをわからしめようなどとは思っていなかったことだろう。
しかし、結果。そのように行動し、わからしめようとしたのだろうという流れに持って行った父の事を考えると、
人間の潜在意識というものは恐ろしい。
凝り固まってしまった歪んだ潜在意識というものは変わることなどできないという事か?
だとすると私も変わる事はできないのだろうか?