杉並区の高円寺南にある曹洞宗のお寺「永昌山 宗泰院」
門前には「開運辨材財天安置」の石碑
宗泰院 縁起
当寺は山号を永昌山と号する曹洞宗の寺で、本尊は釈迦牟尼仏です。寺伝によれば、嘯山春虎和尚が天正12年(1584)、麹町表四番町(現千代田区四番町)に草庵を結んだのが始まりといわれています。開山は小田原万松院の格峰泰逸和尚で、文禄2年(1593)に、幕府から寺地の寄進を受けて、堂塔を整えました。
その後、元和2年(1616)に至り、寺地が旗本の屋敷地と定められたため、市ヶ谷左内坂に境内地を拝領して移転、寺院の取締りにあたる市ヶ谷組寺院触頭を命ぜられています。
当寺の檀家は旗本・御家人・尾張藩士などの武家350家とその出入商人などで、本堂・開山堂・客殿をはじめ、武家檀家参詣のための供待ち部屋・槍小屋・馬小屋など十六棟の伽藍を有する旗本寺として隆盛を誇ったといわれています。
明治維新の変動により当寺も一時、寺勢が衰えましたが明治20年代には復興し、明治42年、陸軍士官学校の校地拡張のため寺地を買収され、現在の地に移転しました。
宝暦7年(1757)建立の本堂、寛延3年(1750)建造の開山堂は、そのまま移築したもので、江戸中期建造の開運弁天堂(尾張藩主の持仏堂といわれる)とともに区内有数の古い建造物です。
なお、当寺には他に類をみない乳房を嬰児にふくませている木彫の「子授け地蔵尊」が安置されているほか、明治の俳人原月舟の句碑、幕末の名剣士すずきは無念流の始祖鈴木大学重明、相撲年寄松ヶ根・東関の墓などがあります。
杉並区教育委員会
境内に入って左手にあるのは江戸中期に建立されたという開運弁天堂。
本尊の釈迦牟尼仏を安置した本堂
本堂の正面には「伊豆の長八」こと入江長八の直弟子で四天王の一人と謳われた吉田亀五郎(沓亀)作の一対の鏝絵「阿吽の龍」が飾られています。
阿形(右)
吽形(左)
高円寺南にある曹洞宗のお寺「普明山 西照寺」
「道了大菩薩安置」の石碑
西照寺 説明版
当寺は普明山と号する曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来坐像です。寺伝によれば、日比谷村(現千代田区内幸町)の漁夫により海中から拾いあげられた阿弥陀如来像が安置された御堂を、天正2年(1574)に、開山明堂文龍大和尚が一寺としたのが開創とされています。
その後、徳川家康の江戸入府による江戸城大築営のため、寺域は武家屋敷地となり、慶長17年(1612)芝金杉(現・港区芝1丁目)に移転しました。しかし、寛永20年(1643)類焼に遭い、寺地は御用地となり、拝領した代替地は狭くて本堂の再建も不可能なため、寛文5年(1665)に芝白金村(現・港区白金2丁目)の地を買収して移転し、寺を再興しました。
この再興に力を尽くしたのが、中興開基でもある旗本の岡田豊前守善政で、以来当寺は代々岡田家の菩提所となっています。この後、当寺は観音堂・鐘楼堂等の堂宇(建物)も整え、江戸西方三十三観音の第26番札所ともなり、門前には町屋が並び大いに賑わったと伝えられます。
明治元年(1868)年、官軍の宿舎となりましたが、失火により伽藍を全焼しました。 その後明治10(1877)年頃には復興を果たしています。 再建された堂舎には、島崎藤村が明治学院在学当時に寄宿したといわれています。
永く御府内にあった当寺も、東京発展のなかで寺域が区画整理の対象となり、明治43年(1910)に現在の地へ移転しました。
江戸後期の持仏堂の形をよく残した道了堂は区登録有形文化財です。 他にも承応2(1653)年銘の「とろけ地蔵」、南町奉行山村良旺や書家佐瀬得所の墓、心越禅師による書幅などの文化財が所蔵されています。
令和6年3月 杉並区教育委員会
山門には心越禅師書による扁額
妙覚道了和尚を祀るために江戸後期に造られたと推されている道了堂は杉並区の登録有形文化財です。
鐘楼
毎年大晦日の23時半過ぎに再開門されて一般の参拝者も除夜の鐘を突くことが出来、回数は108にこだわらず希望者全員突くことが可能との事です。
本尊の釈迦如来坐像を安置した本堂
本堂の脇には「三界萬霊等」があって石仏が並んでいます。




































































































