神明天祖神社と呼ばれている、荻窪八幡の攝社 天祖神社

 

 

 

鳥居の脇に 紀元二千六百年記念碑があります。

 

 

参道が伸びて

 

 

 

 

三の鳥居の先には狛犬が並んでいます。

 

 

 

 

手水舎

 

 

 

水は龍が咥えたホースから出ます。

 

 

 

神楽殿

 

 

並んだ灯篭の前に左へ入る参道があって

 

 

 

 

境内社の御嶽神社があります。

 

 

 

 

拝殿への参道には由緒を記してあります。

 

天祖神社由緒

 

当神社がいつ頃創建されたか詳かでないが、天正十二年(三百八十年前)に伊賀の人 小林弁・浅沼但馬等命を受けて”検地”をした時既に草むらの中に小さな社があったということであるからこれ以前に創建されたものであろう。 その後伊賀の百姓等がこの附近の移り住んで社を修め 伊勢大明神 と崇め祀って来たものと傳えられている。

天正十八年下総國香取郡水戸谷の城主であった水戸谷蔵人景賢が小田原の北条氏に加担して湯本口の戰で豊臣勢に破れ、民族散乱して各地に流浪した。 景賢の子 景正姓を三刀谷と改めて武州に入りその孫 伴蔵正近 元和年中に多麿郡荻久保村に居住し、紀州公に仕え、この地に広大な邸宅を構え、多くの土地を私有するに及んで荒廃した林中に「伊勢の宮」のあることを知って之を改修し祭義を修め四圍に櫻樹を植えて「桜の馬場」と呼んだ、社の東方一帯の地は其の跡で寛永の頃(三百三十~四十年前)紀州公お鷹狩りの節のお休憩所にあてられたと伝えられている。

三刀谷氏其の後姓を井川と改め代々この土地に居住され、当主俊之助氏は景賢より代十五代目の子孫に当る。 

文政元年(百五十二年前)村内百姓 当麻六左衛門・梅田紋次郎等四圍を拓き翌二年七月百姓 長澤治兵衛周囲に植林した。

社は井川氏の管理から村人に移り一時村内「光明院」の持分となったが更に上荻八幡神社の境外攝社として存続し、大正五年御大典を記念して村民一同境内に植林し、昭和九年・社務所を同三十二年・御社殿及び神楽殿を新築した。

壱千八百余坪の神域は附近住民の憩いの森として親しまれて現在に至っている。

 

 昭和四十五年拾月吉日 

 八幡神社文書・新編武蔵風土記稿、井川家古文書等による

 

 天祖神社社務所 天祚神社宮司 小俣秀雄書

 

 

 

拝殿

 

 

 

御祭神は 天照大御神 です。

 

 

参道を戻って左側にある社務所の生垣

 

 

 

珍しい椿があります。

 

 

 ヤブツバキ  の突然変異種を園芸種として創出したもので、キンギョツバキ(金魚椿)またはキンギョバツバキ(錦魚葉椿)といわれて葉っぱの先が三つに分かれて  まるで金魚の尾ひれのように見えます。