明治カナカナ -2ページ目

食べ物

一人暮らしを始めて、野菜のもつ甘さ、肉ごとの値段の違い、料理に必要なものだとかが分かるようになってきた。

キャベツと豚肉の相性がゴールデンコンビ。

社会

自分の意見が人に聞かれ、反映される場は健康上非常に重要だと思う。ネットしか興味なくてもひきこもってられるのは、そこで自分の意見が反映されて社会を感じられるからだろう。ただ、社会にいなくては社会性を得られないという一見ごく普通の事実は、一度落ちたら負のスパイラルまっしぐらという残酷さも持っている。


みんな大変だなぁ

人選

部活の仕事とか、やらないといけないこととか、そういうのは人数や分担でどうしようもないからやるときが多いけれど、そうでないときその仕事をするかどうかは、褒めてもらえるからという子供っぽい理由が優先されてしまう。自分の場合は。


でも別にそれで褒められたり功名心が満足することって大してないから、なぜそんなことやってるのか自分でも良く分からなくなるときがある。


個人的には、褒められたくて何かやるというモチベーションは全然悪くないと思う。重要なのは、真摯に取り組んでそれをやり遂げられるかどうかだと思う。途中でやめたり、他人に迷惑をかけるなら、どんな動機付けであれ、その方がいけないことだと思う。


期待も協力しようという気もないのに、自分がやりたくないからとか楽だから、と言う理由で重要な役を誰かに任せてただ押しつけて決めたら、それで選ばれた人が褒められたい、って思ってやると言って承諾したら、多分そのコミュニティは上手くいかない。よーしらんけどあいつの仕事やろ?だりぃし。と周囲が大して興味をもってないのに、仕事をしている側が俺はこんなに頑張っているのに、と思い出したら不協和音は止まらない。


注目を向けるべきは、選ばれる人以外の人達がどう振る舞いそうか、という事だと思う。


もちろんこれは消極にすぎる考えで、やりたい人がやりたい仕事に向かうのが一番だろう。消極的な「褒められるだろうから」というのは、大概の場合あまり良い結果を生んでくれない。

酔いに任せて

尾崎の歌は酔ったときの感覚に似ていて、それは禁猟区みたいないかにもな曲よりも、むしろForget me notとか太陽の破片とか、割とそういうのからはなれた曲の方に感じられます。音の揺れとふらふら具合が共鳴というかなんだかあいます。禁猟区は、sex and drug and rock'nrollは、むしろ素面の時でないとそこに切り込んでいけない様な気がします。


自分が嫌な奴だと思う人間に、ふと自分がその人に似てきているような気がしたら、それはたまらなく嫌で、不快で、悲しいことだってことに思い及んで、そうして実は自分の方が嫌な人間だって思い始めたら、そうしたらもうどうしようもないけど、別に普通そんなこと考えたりして人は生きてないんだろうと思うと、自分がつまらない人間に思えてきて、悪い方向にスパイラル! X-MENにスパイラルってキャラがいますけれど、彼女は腕が6本あります。みんな楽しそうだなぁ。


日常で感じる


3番目にやな事:自分の知らないところで誰かが自分に対する悪意や不快感を原因として自分の所持品や環境にダメージを与えていたことに気づくこと。誰かのしたことが嫌というよりも、それに気づいてしまうのが嫌。


2番目に嫌なこと:自分が好意で物腰柔らかに対応してたのに、それに対してあ、こいつしょべーわみたいな感じで嘗めた態度をとられること。ぶんなぐりてぇ。


1番嫌なこと:形だけの、体裁の大人の付き合いてきな感じで対応されること。大学生じゃん、本音言えば良いじゃん、そんな付き合いなんか社会で腐るほどこれから何十年もとるやろ。


社会上の倫理的な問題とか規範について言及して、それで他の人間の行動を規定したり文句言ったり、そんなのは、それによって相手に影響与えられてなんぼのものというか、言うだけじゃ意味ないし「俺って正義だろ」感が漂ってて嫌悪感を感じる。



と、ここ吐き出してみる。

優しく

尾崎豊の歌は、優しいと思う。具体的に言葉がどうとか、彼自身がどうか、ということじゃなくて、トータルで歌自体が優しいのだと思う。

口だけの威勢でも聞き触りのいい誓いでもなくて、すぐ変わっていって手の内をすり抜けていくものに対しても、誠実であろうとしてるのは優しさだと思う。

或いはもしかしたら、それは優しさに見える何かだけれども優しさではないかも知れない。僕の言う優しさが他の誰かのいう優しさとは違うこともあるし、誰かにとっては卑怯なのかもしれないけれど、それでも尾崎のあの歌達は、こちらに語って共感して包み込んで、何がどうなのかを考える時間を与えてくれるだけの力をもっていると思う。

かくこと

絵を描くという事は結局自己満足に近いものだと思う。
その絵で収入を得るわけでもないし、その絵で社会や誰かの心や考え方に影響を与えようとも思わない。

言ってみればゲームをするようなものなのかもしれない。

自分の描きたい物が描きたいように描ければ嬉しいし、描けなければ悲しい。
絵は自己だ、解放だ、社会だ、虚無だ、と声高らかに叫ぶかたももちろんいらっしゃるが、その人がそれを生業にしていなければ、その声も考えも単に言っているだけというか、威勢だけのものに感じる。

自分の知っている限りのそういう人達は作品も作っているのだけれど、いいからあなたの考えを多くの人間に伝えられるような絵を描けよって思う。どうも彼らの言葉が、自分の絵の意味を正当化したり泊付けしようとするためのものに聞こえる。そういう言葉って殊更に自分の絵に言うものなのかしらん??そういうのもういいから、ぶっちゃけどうでもいいから、もっと雄弁な絵を描いてよ。何そのどっかからパクったような既視感のある「それっぽい」絵。

そうしてそういった言葉を他者の作品に向けようとすれば、きっと社会で活躍しているような方に対してで、身内や名もない学生の作品には向かっていってなくて、聞いてて空寒い。

じゃぁその主張別にいらなくない?要らないって言うか、言う必要なくない?絵が、あなたの絵が色褪せてく気がする。

こう言うのは自分がそういう声高になにか叫べる絵を描かない、描けないからだろうか?どうしてもそういう言葉を発するときは、その主張に見合うだけの作品を描けないといけないと思うのだけれど、それってこの社会で一体どれだけの人が体現できて、それで認められているだろう。

そのために必死に描いている人がいて、必死に考えてる人がいて、それでも認められない伝わらない人が殆どなのに、さも知ったように身内や周囲の人にだけペラペラ喋って俺は考えてるんだアピールしても、その言葉にどれだけの力があるのか疑問に思ってしまう。

それでももしかしたら彼らはもの凄く正しいことを言っていて、作品もそれに見合っているのかもしれない。それってのは十分あり得ることだと思うけど、じゃあ、それならもっとその言葉の向く先を広げたらいいんじゃないかと思う。

出来るけど、しない的なスタンスをとっているようで、なんだかなーってなってしまう。

ならもっと純粋に作品を描いてくれたらいいのに。その考えですんごいの作ってくれたらいいのに。

技術や能書きや理念がなくても、心動かされる絵は山ほどあるし、もの凄い力や技術に圧倒される絵だってあるけど、よっぽどのものでない限り、それらの多くはまずもってその制作に傾注したものであって、打算的だったり下心を契機としたものではないはずだ。

そういった作品の製作が自己満足だったのかそうでないのかはケースバイケースなのかもしれないけれど、でもその割合ってのは多いんじゃないかと思う。

じゃあ自分がそういった絵を目指してるかっていったら別にそうではないけど、取り敢えずそういった口ばっかりになるよりか、もっと単純に絵をちゃんと描いていきたいと思う。

ラウニー

久しぶりにラウニーを使って水彩を描いた。

初めはWinsor&NewtonのCotmanを使って描いていて、ふとラウニーのほうがいっか、と思って変えたのだけれどやっぱり素晴らしい。

伸びも発色も気持ちいい。綺麗とか、技術的にどうとかよりもまず先に感覚的官能的な気持ちよさが表れてくる。さーーと筆を走らせた瞬間のぞわわわという気持ちよさ。ひょーー。


たまらん!


それはもうぬっくぬくの絵を描いてしまうこと致し方なし。猫と、鳥と。

秋力魚

土曜は野球の練習が3時間あった後、部活でさんまパーティ。夕方5時から朝まで。

100匹近く焼いて食べまくった。一人5匹というノルマをなんとかこなす。

食べ物はサンマオンリーなのでご飯が欲しかった…


絵を仕上げられるか微妙だったけど、明日体育の日だって気づいたのでいけそう。というか下手したら普通に学校行ってたかも。


ミスチルを好きな友達とマブカプ2をしたい。

あっつい80s

80年代のアイドルやミュージシャンへの熱狂的だった、ファンや世間のように、現代ってそんな状況になれるんかな?

なんに対してだって、ネットで色んな見方があることを誰でも閲覧できて、雑誌やテレビとかのメディアの作るブームとかの幻影にあっけらかんと乗っかって楽しむのって、ギャルとか高校生はまだしも、そうでない若者にとってはきっと昔よりむずかしいと思う。

あの頃は、良くも悪くも過剰演出されたメディアの中での「芸能人」ていう存在に、多分見る側も見られる側ものめり込んでたと思う。尾崎だって中森明菜だって、煽りまくるようなキャッチコピーと世間の好奇の目の中で、そうした需要への対処としてきっと「カリスマ性」を身につけていったんやないかな。

今人気の、なに、おばか(?)ユニット?とかはそういうのとは全然違うけど、それって、芸能人や若者がそうなっていったというよりも、情報の伝達方式とかの違いで世間の見る目が軽くなっていったからてのが原因に近いんやないかなって思う。

芸能人側もファン側もヒートアップして、まるでお互い削り合ってたようなあの時代に比べて、ブログやネットの影響で、誰かの本性とか人間性とか、そういうもののごまかしが効かなくなってきたからこそ、本音や素の姿の(のように見える)おバカな雰囲気の人等がもてはやされてる気がするね。

今「カリスマ」的な雰囲気を持ってるのって、皮肉っぽいと思うけど、前から素の態度を演出してきた芸能人のジャンル、お笑い芸人ばっかやとおもう。さんまとか伸介とかたけしとか。

30年前に圧倒的カリスマだったアイドルとかミュージシャンってジャンルは、多くのバラエティとかへの進出とかipodとかカラオケとかそこら辺の存在によって、お笑い芸人とかよりもむしろどんどん身近なものへとシフトしていったのだと思う。確かに、えぐざいるとかジャニーズとか、多くの人に凄く求心的な力をもつひとらもいるけど…うーん、そこはでも俺は具体的な雰囲気を知らんからよう分からんけど、それは単なる人気なだけのカリスマに近い気がする。

そりゃもちろん、ファンの人達にとっては誰だってその人にとってのカリスマであることは違いないんだけれど、ただ、その共通認識って一時代に比べて凄くこう身内的というか、閉コミュニティ化していると思う。実感としては分からないけれど、尾崎っていったら音楽聞かない人達にとっても10代の教祖であったとおもうし、知名度って問題はあるにしても、すごく世間全体に力があったと思うのね。

それがほら、今はこうトップランクのミスチルだったとしても、桜井さんの凄さがどうのって語る人から、あーみすちるいいよねー(笑)ってのしか言わない人までまんべんなく幅広くあって、色んな音楽をゆるく聞くのが普通になってきたと思う。

それってipodとかの、ネット配信や携帯の着メロで、気に入ったときにどこでもいつでも音楽が聴ける状態になったからやと思うけど、これって有史以来のとてつもない変化だ。例えば尾崎の時代に、尾崎ってなんか良いよねーっていうライトに聞く人って少なかったんじゃないかな?音楽はCDかカセット、メディアもラジオとテレビくらいしかないんやから、その音楽を聴くには、「音楽を聴く」って状況にいないといけなかったわけで。

それっていうのは、もう古くから、アジアだろうと中世ヨーロッパだろうともっともっと前だろうと、ずっと同じで、その唯一性や本人性もカリスマの要因の一つであっただろう。

今なら、音楽を聴くと言うより、流す、それも時も場所も選ばずっていう状況が増えてると思うし、そうなったとき音楽とか曲とかって、自分の中にぐいぐい入ってくる本質的なモノかどうか、ってことよりもぱっと聞いてて馴染みやすいか、とか乗れるかとか、そういうモノが求められてくるはず。そうしたら、きっとそれを発信するアーティスト自体も、そういったイメージを求められるわけで、尾崎みたいな切実な人間が歌う切実な曲を気軽にコンビニでは流せないと思う。尾崎みたいなのがポ、リ、リズム~☆♪とか言ったって虚しいだけやけしね。


だから結局、かるーい、なんとなーくの、多くの若者が憧れてる例えば恋愛に対するうただとか、一発当ててやるぜイェイだとか、そういったシーンにマッチしつつ且つ重すぎない、考えさせない、感覚的肉体的に共感できる歌詞やメロディ、ひいてはそういったイメージのアーティストが人気が出てくるんやと思う。

そういった中ではもう、聞く側をのっぴきならない気にさせるカリスマ性てのは最初からは必要なくて、曲が売れることによって後天的に生まれた、単なる人気に立脚する似非カリスマって言うようなものぐらいしか、アーティストにはもう殆どないんじゃなかろうか。B'zとかはでも例外のほうなんかな、疎いから良く分かんないけど。でも取り敢えずその数自体は一時期に比べて圧倒的に少なくなってると思う。

で、だからこそ、80年代のカリスマ(本人がそうだったのか或いはメディアとファンの作る虚構だったのかはさておき)だったような人達の音楽を聴くと、現在のカリスマ的存在の少なさや、どちらかというと本音っぽい言葉の受ける現状の影響で、その鏡面的な形のせいで格好良く見えるんではないだろうか。一部の人には。

でも、そのカリスマ性って、社会や時代の文化的、技術的背景にも立脚してるから、もうipodやようつべやにちゃんねるが台頭してるこの時代には成り立ちづらい、もしくはもう成り立ち得ないものかもしれない、いわばイデア的なものになってると思う。そうだとしたら、自分の友人なんかの言う、80年代に生まれてたらやべーぜ!って気持ちの憧憬的気分はそういうものに近いんやないかな、って思う。少なくとも自分はそうで、それはもう自身が生きていたはずの90年代に対しても、激しくそういう気持ちで憧れているね。

なんにせよ、そうやって懐古とか、失ったモノへの憧れとかも含めて、彼らはきっとカリスマで在り続けられるんやないかと思うし、それはきっと紛うことないカリスマだった証なんだろう。尾崎豊や中森明菜が今でも格好いいのはそういう理由で、また、そういった理由故に、その魅力を感じるのも一部の人、コミュニティだけになってしまってるから、現在進行形のカリスマにはなり得ないけれども、でも、その力はやっぱり凄い。

一言で「ただの懐古だろ」ってなりそうなところなんやろうけど、でも、その時代を知らない自分らも、その時代に対してすげーって思うんならそう思わせる何かがあるんやろうって思って、いろいろ書いてみた。まぁ結局やっぱり現代では盲目に熱狂的にお互いをさせて、互いに入れ込むのって、世間的に大々的に行うのは極々難しいことなのだろう。

レポート提出

今年定年で退職される先生の所に、物理化学のレポートを出しに行った。


「物理化学のレポート出しに来ましたー」


「何のレポート?」


「えっと、あの、後期の物理化学の・・・」


「…」


「夏休みの奴です」


「君何回生?」


「2回生です」


「あ、そう。はい」


「おねがいします」


「………これみんなこれ書いてるけど、なにこれ、誰からこれ習ったの?」


「先生からですよ」


「嘘つけ!」


「!?!?!?!?」


「これは?これもか?こんなのも?」


「は、はい、…先生の配られたプリント参考にして…」


「…別の所で作ってるプリントと似てるな…どっかから流出してるのか?うーん」


「それ、先生が2回生に配られたプリントです」


「いつだ」


「いや、前期の物理化学の時に…」


「そうか…」


「…では…失礼しました。」


バタン



お、お爺ちゃんぼけてもうたんか!?この前行ったら、「レポートできたらま、持ってきてくれ」って自分で言うてたやん!

プリント配ったの先生やん!



てか嘘つけ!て!!!!!!なんでやねん!