あっつい80s | 明治カナカナ

あっつい80s

80年代のアイドルやミュージシャンへの熱狂的だった、ファンや世間のように、現代ってそんな状況になれるんかな?

なんに対してだって、ネットで色んな見方があることを誰でも閲覧できて、雑誌やテレビとかのメディアの作るブームとかの幻影にあっけらかんと乗っかって楽しむのって、ギャルとか高校生はまだしも、そうでない若者にとってはきっと昔よりむずかしいと思う。

あの頃は、良くも悪くも過剰演出されたメディアの中での「芸能人」ていう存在に、多分見る側も見られる側ものめり込んでたと思う。尾崎だって中森明菜だって、煽りまくるようなキャッチコピーと世間の好奇の目の中で、そうした需要への対処としてきっと「カリスマ性」を身につけていったんやないかな。

今人気の、なに、おばか(?)ユニット?とかはそういうのとは全然違うけど、それって、芸能人や若者がそうなっていったというよりも、情報の伝達方式とかの違いで世間の見る目が軽くなっていったからてのが原因に近いんやないかなって思う。

芸能人側もファン側もヒートアップして、まるでお互い削り合ってたようなあの時代に比べて、ブログやネットの影響で、誰かの本性とか人間性とか、そういうもののごまかしが効かなくなってきたからこそ、本音や素の姿の(のように見える)おバカな雰囲気の人等がもてはやされてる気がするね。

今「カリスマ」的な雰囲気を持ってるのって、皮肉っぽいと思うけど、前から素の態度を演出してきた芸能人のジャンル、お笑い芸人ばっかやとおもう。さんまとか伸介とかたけしとか。

30年前に圧倒的カリスマだったアイドルとかミュージシャンってジャンルは、多くのバラエティとかへの進出とかipodとかカラオケとかそこら辺の存在によって、お笑い芸人とかよりもむしろどんどん身近なものへとシフトしていったのだと思う。確かに、えぐざいるとかジャニーズとか、多くの人に凄く求心的な力をもつひとらもいるけど…うーん、そこはでも俺は具体的な雰囲気を知らんからよう分からんけど、それは単なる人気なだけのカリスマに近い気がする。

そりゃもちろん、ファンの人達にとっては誰だってその人にとってのカリスマであることは違いないんだけれど、ただ、その共通認識って一時代に比べて凄くこう身内的というか、閉コミュニティ化していると思う。実感としては分からないけれど、尾崎っていったら音楽聞かない人達にとっても10代の教祖であったとおもうし、知名度って問題はあるにしても、すごく世間全体に力があったと思うのね。

それがほら、今はこうトップランクのミスチルだったとしても、桜井さんの凄さがどうのって語る人から、あーみすちるいいよねー(笑)ってのしか言わない人までまんべんなく幅広くあって、色んな音楽をゆるく聞くのが普通になってきたと思う。

それってipodとかの、ネット配信や携帯の着メロで、気に入ったときにどこでもいつでも音楽が聴ける状態になったからやと思うけど、これって有史以来のとてつもない変化だ。例えば尾崎の時代に、尾崎ってなんか良いよねーっていうライトに聞く人って少なかったんじゃないかな?音楽はCDかカセット、メディアもラジオとテレビくらいしかないんやから、その音楽を聴くには、「音楽を聴く」って状況にいないといけなかったわけで。

それっていうのは、もう古くから、アジアだろうと中世ヨーロッパだろうともっともっと前だろうと、ずっと同じで、その唯一性や本人性もカリスマの要因の一つであっただろう。

今なら、音楽を聴くと言うより、流す、それも時も場所も選ばずっていう状況が増えてると思うし、そうなったとき音楽とか曲とかって、自分の中にぐいぐい入ってくる本質的なモノかどうか、ってことよりもぱっと聞いてて馴染みやすいか、とか乗れるかとか、そういうモノが求められてくるはず。そうしたら、きっとそれを発信するアーティスト自体も、そういったイメージを求められるわけで、尾崎みたいな切実な人間が歌う切実な曲を気軽にコンビニでは流せないと思う。尾崎みたいなのがポ、リ、リズム~☆♪とか言ったって虚しいだけやけしね。


だから結局、かるーい、なんとなーくの、多くの若者が憧れてる例えば恋愛に対するうただとか、一発当ててやるぜイェイだとか、そういったシーンにマッチしつつ且つ重すぎない、考えさせない、感覚的肉体的に共感できる歌詞やメロディ、ひいてはそういったイメージのアーティストが人気が出てくるんやと思う。

そういった中ではもう、聞く側をのっぴきならない気にさせるカリスマ性てのは最初からは必要なくて、曲が売れることによって後天的に生まれた、単なる人気に立脚する似非カリスマって言うようなものぐらいしか、アーティストにはもう殆どないんじゃなかろうか。B'zとかはでも例外のほうなんかな、疎いから良く分かんないけど。でも取り敢えずその数自体は一時期に比べて圧倒的に少なくなってると思う。

で、だからこそ、80年代のカリスマ(本人がそうだったのか或いはメディアとファンの作る虚構だったのかはさておき)だったような人達の音楽を聴くと、現在のカリスマ的存在の少なさや、どちらかというと本音っぽい言葉の受ける現状の影響で、その鏡面的な形のせいで格好良く見えるんではないだろうか。一部の人には。

でも、そのカリスマ性って、社会や時代の文化的、技術的背景にも立脚してるから、もうipodやようつべやにちゃんねるが台頭してるこの時代には成り立ちづらい、もしくはもう成り立ち得ないものかもしれない、いわばイデア的なものになってると思う。そうだとしたら、自分の友人なんかの言う、80年代に生まれてたらやべーぜ!って気持ちの憧憬的気分はそういうものに近いんやないかな、って思う。少なくとも自分はそうで、それはもう自身が生きていたはずの90年代に対しても、激しくそういう気持ちで憧れているね。

なんにせよ、そうやって懐古とか、失ったモノへの憧れとかも含めて、彼らはきっとカリスマで在り続けられるんやないかと思うし、それはきっと紛うことないカリスマだった証なんだろう。尾崎豊や中森明菜が今でも格好いいのはそういう理由で、また、そういった理由故に、その魅力を感じるのも一部の人、コミュニティだけになってしまってるから、現在進行形のカリスマにはなり得ないけれども、でも、その力はやっぱり凄い。

一言で「ただの懐古だろ」ってなりそうなところなんやろうけど、でも、その時代を知らない自分らも、その時代に対してすげーって思うんならそう思わせる何かがあるんやろうって思って、いろいろ書いてみた。まぁ結局やっぱり現代では盲目に熱狂的にお互いをさせて、互いに入れ込むのって、世間的に大々的に行うのは極々難しいことなのだろう。