明治カナカナ -3ページ目

ちょこ

生協で売れ残ってたチロル買ったら、一旦どろどろに溶けたのがまた固まったタイプの奴で、チョコレートが白くなってバッサバサしてた。


台風一過の翌日の道路はなんだかワクワクする。



拉麵

拉麺がたまらなくおいしい。九州にいた頃は、一蘭とか有名な店以外にも豚骨ラーメン屋が山ほどあって、むしろ豚骨以外が珍しかったのだけれど、京都ではそうではないようだ。

天下一品はこちらに来て初めて名前を聞いたが、まだ行っていない。高安はおいしかった。ますたにとかも行ってみたい。


とにかく拉麺おいしい。

その人が

その人が「うん」とうなずくときに言う、その一言だけで呼吸がとんっと止まる位、素敵な先輩がいる。

人間関係は複雑で、互いのベクトルがてんでばらばらなことは良くある。向きも大きさも。


一言で胸が苦しくなる。

授業

大学の先生の授業って、基本的に分かりづらい。先生の方は何十年と学生時代から使ってきた単語で、また毎年学生に教えているから、もう息を吐くようにさらさらと記号の式を書いていくのだけれど、これに慣れるのが意外と辛い。


μの右上に※印みたいなのがついてたり、丸が付いてたり、Φの90度回転がついてたり、わけわかんねーってぽけっとしてたら、説明なんて一言だけちょろっと言ったかどうかも分からない位で進んでたりする。そんでお声が小さくあらせられたりする。


周り見てたら、教科書読んだり参考書とかで補充してて、やー熱心だな~って思うけれど、でも先生もうちょびっとだけ分かり易い感じにしてくれたら、きっと多くの学生が救われますよ、と。 調べたり、定義を言われたら5秒で分かるような記号でも、一度聞き逃したらその意味がなんなのか推測しつつ授業受けたり、意味分からんまま式を追っていかないといけないのが自分は苦手です。


あと、ふんふん、なるほどわかるわかるってなってたのに、二行下に行くといつの間にかぽぽーんと説明飛んでたりして、焦る。何故…


それはもう大学の教授は研究者であるとおもうし、学生のための教育者だ、なんてのはファッキン建前だってこと重々承知してるのだけれど、でもおじいちゃん、もうちょっと、もうちょびっとだけゆっくり説明プリーズ。


大学なんて自分で勉強する場所だろ、ってのはいやそうなんだけど、学費も高いし、90分の間教授も生徒も授業って枠の中で過ごすんだから、せっかくだからもうすこしパフォーマンス上げるってのも、出来たらいいんじゃないでしょうか。そういうのって教授側からの溢れるボランティア精神でもないと無理だろうとは思うけれど。


ただ、ある農学部の先生が、授業中に「大学の教授が研究者であるだけではいけない、教育者であるべきだ、私はそのようにしている」っていってたけど、その雰囲気は「どうや俺わかっとるやろ?あ?」って感じで、授業にかんしても結論と本論のつなぎの悪さとか、頭使わせようとして失敗してる感というか、そういうのやっぱり残念ながらあった。自分は人と違ってちゃんとしたことしてる、ってのはそれは良いと思うのだけれど、そのどや感オーラ出しまくってると、はぁ?ってなる。ボランティアしてることを毎日自慢してくる人なんて、嫌でしょう?


あと、授業についての感想をメールで送れと言うことで、その中の一部が授業ごとにプリントアウトされてたけど、これどうみても媚びてるだけじゃ…、ってのばっかり載ってて、若干醜塊さが漂ってた。それくらいなら、ストイックなまでに分かりにくいおじちゃん教授の方が格好いいと思う。決して、だからそっちの方の授業がいいとか、ましてや受けてみたい!って意味ではないけれど。


まぁ、仕方ないというか、これって今まで多くの大学生が歩んできた道なのだろう。東大だろうと京大だろうとどこだろうと。そうして一生懸命授業に出てても出て無くても就職や仕事に関する出来の良さは比例してなかったから、だからいかに授業に出ずに、テストに受かり単位をとろうとするのか、という学生の対応が生まれたのではないか。やんぬるかな。


ちなみに今自分が専門でとってる授業は、普通に授業出て普通に勉強しないと普通に落とす、(自分にとっては)分かりづらい授業です。

すてきな細部

今の時間から絵描こうかと思うことが多いけれど、大概眠くて上手くいかない…


この世の中には、本当に美しくて、ため息が出るような、そうしてそれを見ている人等が気づかないだけの、素敵な事柄が幾千とあるはずだ。


そういうのを自分は描きたいと、写し取ったりよく見ることでなんてすげーんだろうって、そう思いたきから、だから描く物に対しては細部の、どちらかというと些末(?)な部分が好きだ。


フォルムやボリュームは骨子といった点で重要なのだけれど、それにフォーカス当てまくって、それが重要やねん、それが本質や、って言って、それだけで満足は出来ない。良いとか悪いとかより好みの問題で。


ボリュームが大事と言う人がいたのだけれど、個人的にはその人の絵を見ても、ふーん、口ばっか、としか思えなかった。名を馳せたわけでもないのに、理論重視して技術が大したことないのに、俺のはこれがこうこうこうこうだから美しいねん、って言われても…描き手なら、踏むべき段階があるんじゃなかろうか、段階が。


さぁでも彼の描いたそれがそれが美しいかどうかは見る人にもよるだろうし、彼自身のなかでは、さいっこうに美的なものを描いたのかもしれない。


でも、じゃぁそれをそういって他の誰かがそうだと認めなければいけないかっていったらそうではないと思う。最終的に、どんな名画をみても、「かわいい~」と言う人がいれば、それはその人にとってかわいい~だし、それってなんだろうと大してなんか問題があるわけではないとおもう。


世界のどこかで一つの定義やなんか正しいことが叫ばれても、それが個人がなにをどう捉えるかに終始して、社会的な効力や多くの人を巻き込んでその人生を不可避なほど劇的に変えるものでなければ、詰まるところそれは正しかろうがなんだろうがどーでも良いんだと思う。


一枚の絵にも、一曲の音楽にも、誰かの人生をぐるぐるかき回すほどの力があることは疑いようがないとしても、その力の正しさや効果や、どうあるべきかを誰かに認めさせるべきだったりは、当人同士がそういった関係性を望まない限り必要ないし、無意味だと思う。評論家同士のあーだこーだと、ただそれを鑑賞している人の間に、なんらかの意見についての統一なんかなくっていいのだ。


例えば自分の属す美術部というコミュニティでは、ある作家の作品に対して、どういうものだ、という感想や議論や意見交換がなされるけど、それって専門家や他のコミュニティ、同じ世代の別のモノに興味を持ってる人にとっては取るに足らない雑談とかわらなかったりする。


何か自分らが大事に語ってることに関して無頓着な人達に対して、わかってないとか蔑む傾向が人にはあるけど(閉鎖的なコミュニティではとくに集団自体がその傾向を持つと思う)もっとフラットに見ていったら、どっちがうえだの分かってるだの、興味の違いに終始するはず。


「今の」「この社会での」価値観が、何が高尚で何が低俗かを決めているだけであって、そんなものは生きていくのに便利かどうかってことくらいにしかあまりリンクしてないような気がする。


辛くないように生きてくことが多くの人にとっては目下単純に興味湧く課題であるはずだ。


で、じゃあコミュニティ内では同じ考え方共有しないといけないかっていったら、結局単位の問題だから、最終的な判断単位は個人に行き着くのじゃないかと思う。もちろん、全体の意志に個人が揺さぶられることもあるけれど、その全体の意志や、全体に属す理由はどこから来たのかって話。


微細なところ、正確なところ、理にかなってるところ、そういうものが細部から全体まで行き渡っているものが、自分は綺麗なものだと、美しいモノだと思う。


以上、取り敢えずの日本の京都でたいした苦しみに苛まされていない、若者の、暫定の個人的意見。

初めまして。。

京都で大学生やってます。たまっていいます。

mixiもいいけれど、あれは近親者同士で距離を取りつつ且つ張り付いての発言に近づくようになっていってると思います。ブログの方が本音とか言いづらいことに意外とすっといけると、個人的に思ってます。


なので色々と、書いていってます。


世の中に対して分からないこととか多いと思うので、何かコメントありましたら気軽にかきこんでください。。