今日は一日雨。午後の授業までひたすら中国史の唐の時代の授業準備である。
唐自体も元々は鮮卑という民族が生み出した国家だが周辺諸国を見ると日本を含めてさまざまな民族、国家があったことに驚く。教科書的には唐が東ユーラシア世界の中心として堂々と君臨していた、という説明になるのだろうが、そこまで単純な話ではないだろう。唐の外交政策として名高い羈縻政策もつまるところ撫民、防衛政策であり、雑多な民族を一手に統治はできないというあきらめと府兵制の崩壊を補う打開策であることが透けて見える。のちに自治を認められた羈縻府の長が節度使、さらに藩鎮という一大勢力となり、唐の衰退を加速させるのである。これは両税法の誕生という税制大改革を含め、次回の授業の課題となろう。
則天武后、玄宗の時代はまさにその過渡期にあり、長安の繁栄など外目には派手に見えるが、内部では門閥貴族、科挙官僚、宦官、節度使、そして、楊家に代表される外戚など、さまざまな層の人々が鎬を削っていた。玄宗の時代はこれら権力層のバランスをうまく取ろうとした政治を行い「開元の治」と後世にも評価されているが晩年はやはり疲れてしまったのだろうか。そうなると楊貴妃に逃げた気持ちもこの年になるとわからないではない気になる。