新年一発目から、少し日が空いてしまったが、紫式部日記と並行して読んでいた、楳本捨三氏の「日本の謀略」を読了。作者の名前は、おそらく、多くの方が聞き及びないものだと思うが、大学在学中、戯曲(演劇上演のために書かれた作品)を書き、昭和10年代に、満州へ、本格的に執筆活動を開始、多くの戦記を書いている。また、モンゴル帝国の英雄、チンギスハンについての小説を書いている点でも興味深い作家である。

さて、本作「日本の謀略」は、明石元二郎から、中国機密工作、インド、ビルマ独立工作、そして、陸軍中野学校まで、日本の謀略戦に触れた作品であるが、全部を取り上げると、ボリュームが多くなるので、本日は、明石元二郎。

明石元二郎といえば、日露戦争のさなか、ロシア国内、さらに、ロシアの属国の不満分子を扇動することで、ロマノフ朝を混乱に陥れ、日露戦を優位に進めることに貢献した人物である。明石は「落花流水」という遺稿を残しているが、ロシアの歴史、政治体制、思想の分析はもちろんのこと、ロシア国内だけでも、7つのロマノフ王朝不満分子、さらにフィンランド、ポーランド国内のロマノフ王朝に対する不満分子を調査分析、挙げ句の果てには、革命運動に加わっている主要人物についても細かく分析しているのである。このような情報収集と分析を経た結果、自分がロシアに対し、どのような後方撹乱、諜報を行い、策を練ったかについてまとめた、いわば、近代史における一大兵法書といえる。明石の諜報活動は、日露戦争に大きく貢献、目覚ましいものであったが、ロシアの軍事スパイも暗躍する中で、さまざまな団体、人物の意向をとらえながら、日本の意図する方向に貢献する流れを作ることは、知力だけではなく、研ぎ澄まされた感覚も要求される仕事であったことがこの書の記述からもわかる。不平分子の首領は、その活動とは裏腹な立派な肩書を持ち、社交界のパーティーに出席することすらある。明石が不平分子の首領と特定して、接触をはかっても、簡単に正体をあかすことはしない。なんらかのつながりを通じて、安全な場所を選び、ついに会ったとしても、簡単に自分たちの正体を明かしたり、ましてや、情報を漏らしたりはしないものである。明石の立場からすれば、相手がロシアのスパイである可能性も踏まえつつ、相手から情報を引き出すよう交渉するのである。これを戦いと言わず、なんといおうか。当然、不平分子のそれぞれの主張思想が折り合うよう、何度も交渉、会談を行うこともいとわなかった。参謀本部の要人に「明石の働きは、10個師団の働きに等しい」とまで言わせた明石の草の根のような活動は、やがては、第一次ロシア革命の民衆蜂起につながり、ロシア軍隊は、国内の鎮圧に力を削がざるをえず、ロシアの満州戦線撤退を余儀なくされたことが、日露戦争の和平につながったのである。

この書は、今ではすっかり「謀略戦に弱い」と言われる日本に、かつては、頭を絞って、敵を撹乱し、欺き、自国の優位を得ようとする人物がいたのだということを示す書だと言える。明石元二郎が、日露戦後、日本に帰ってきた時に、出迎えたものはいなかった。スパイの悲哀といおうか、昔も今も、影の存在なのだろうが、その裏にあるインテリジェンスと美学を、また、後日、別のテーマで書いていきたいと思う。