最近、とみに塾講師らしくなってきた。今年の春から、縁あって、サポート校で大学受験の指導を始めた。まわりは優秀な先生ばかりで刺激になる。みんないい人ばかりだし、なにより、相談(という名の愚痴笑)できる相手ができたのが有難いね。昨年までは、ほとんど自分で考えてやってたから、かなりきつかった。今年はある程度の型ができつつあるから、昨年よりは余裕がある。でも、まだ楽はできない。正直なところ、もっと稼ぎたい。スケジュールがいっぱいいっぱいのようにも思えるけど、工夫すればまだ仕事を受けられるはず。もっとも何も考えず、引き受けすぎると、キャパオーバーではまるのは、昨年も経験済みで懲りてる。お金にはならないが、過去問や参考書を研究したり、小ネタを仕入れたり、教え方について学ぶ時間も楽しいし、なにより必要なことだから、よいバランスを考えなくてはならないと思う。
一方、お世話になっている、個別教室の運営にも、成り行き上、携わることになった。昨年から、この仕事を始めて、成績をあげる、志望校合格という目標を達成しようという思いでやってきた。自慢みたいになるが、おおむね僕が担当した生徒は運良く、というか、ほぼ一定の成果が出たと思う。やはり個別教室の意味は、ただ勉強を教えるだけではなく、生徒とコミュニケーションできることにある。特に、受験生は、いろいろと悩みが多い。話を聞いてあげるだけでもいい。常に話し相手であることを意識していた。一方、弊害もある。特に、小学生、中学生だと、先生、生徒という間柄というよりは、友達みたいになってしまい、どうしてもお互いに甘えが出る。一回そうなってしまうと、変えるのは大変難しくなる。今もそういう教え子がいて、どうしようかなと考える。まあ、ある意味は仕方がないことだと割り切っている。話が脱線してしまったが、1年やってきた感想として、成績を上げたい、志望校合格という目標自体、生徒が意識していないケースがあることに驚いている。が、少し考えればわかることだが、当たり前のことなのだ。僕は、たまたま自分が行きたい高校にも大学にも自然と関心が持てた。ラグビーと勉強が両方できる学校ということで、高校を選び、運良く合格。高校では、部活の先輩がいて、受験した学校を聞いたりして、なんとなくここかな、という学校を見つけることができた。昨年も、やりたいことや志望校がはっきりした生徒は、見事に受かっていった。しかし、ほとんどの子供は、自分がどう進むか、ということについては、漠然としているのではないか。それが可能性ということであり、大人の人生とは違った意味での漠然さともいえる。成績を考えなければ、なんでも選べる。極端な話、進学しないという選択肢もあるわけだが、立場上そこは考えないことにしても、このなんでも選べるということは、なかなか難しいのだと思う。好きなことがあって、それができる学校ということで選ぶ生徒もいるが、さらなる進学、就職のことを考えると、本当にそれでいいのか、とか、考えれば考えるほど、ことは複雑になるような気がする。いや、考えるならまだいい。まったく考えないと始末が悪い。いや、もちろん中学生ぐらいだと、難しいのかもしれないし、家庭環境など、さまざまな状況から考えるところまで至らない子もいる。ただ高校生で、それだと始末が悪い。まあかくいう私も、大学で勉強したいこととか、将来何をしたいかなどほとんど考えなかった高校生だったんだけど 笑
塾の運営の上で、生徒の進路の相談に乗るということは外せないと思う。学校の先生がどこまでそのことを考えているかはわからないのだけど、家庭からは、塾にはとにかく結果が求められる。結果を出すためには、カリキュラムはもちろん大切だ。ある程度の目安がなければ、教える側もやりにくいし、家庭も生徒も納得しない。ただ、しかし、これも変更を余儀なくされる不安定なものだ。最初は、使う参考書が決まれば、それでいいと思っていたが、最近そうでもない気がしてならない。かなりできる生徒でも、テストでなんども繰り返してしまう、どうしても直せない癖があったりする。テストのトラップにあえなくはまったりする。トラップについては、本当はそんなものを作る側が良くないと思うんだが、実際あるからしょうがない。ここで、剣術の稽古になぜかつながってくる。剣術では、余計な動きを省略していく。足を下げすぎない。腕をいろいろ動かさない。しかし、相手がいると、相手の早さに思わずつきあってしまったり、余計なことをしてしまったりする。テストは、制限時間があるゆえ、早さが求められると思ってしまう、まさにその思い込みにこそ、魔が潜んでいるのではないか。早さには限界がある。スポーツを見てわかるように、どんなに、スポーツ科学の英知を集めたところで、身体的に恵まれている人を極限まで鍛えても、結果は1秒ないしそれ以下の時間を縮めることしかできない。ならば、いかに余計なことを省略するか、必要最低限のことに止めるかを考えるかである。もう少しテストの例でわかりやすくいえば、英語の長文問題を回答する上で、内容を深く理解する必要があるかないかの見極めかもしれない。
さすがに過去問をある程度研究すればわかることだが、問題ごとに効率的に問題を解くためのポイントがある。ところが内容にのめり込みすぎて、時間をロスすることが往々にしてある。わからない文章が出てくると、どうしても読みきらないといけない気がしてくる。自分自身で解いてみるとそれがわかる。ああ、あの生徒ならこういうところで引っかかるかもな。とか。かなり付き合いが長くならないとそこまでわかるのは難しいけど。
また脱線したが、結局は、本番でできるかどうかが全てだと思うので、教える中では、合格点に達するためのことをしていけばいいのだ。いいところを伸ばす、もちろん大事だが、アラ探しの要素もある気がする。まあアラと考えず、いいところを伸ばすために必要なことということにしましょう。
いずれにせよ、試験は生徒がやること。こちらは、小賢しくいろいろ考えるけど、生徒にやる気がなければ、ダメだし、あっても、なかなかうまくいかないこともある。二言目には、生徒にやる気を出させることが大事と口を並べていうが、それがどれだけ難しいことか。これまでも、今思えば何度とムダと思えることをやってきたことか。教える側も、必要最低限が何なのかを考えなくてはいけないのか。そこまでいくと人間技ではないが、とにかく生徒の将来についてみんなで知恵を絞っていく環境を作れればいいなと思う。
これだけのことを言うのに、ものすごい字数を費やす。たまにはいいか。