3月。高校入試、大学入試が終わり、受験生の教え子たちも、ほぼ全員、進路も決まり、一安心である。教え子からは、お礼の手紙をいただいたり、今後もつながりたいと、連絡先を聞かれたりと、なんだかとても感謝された。私のような人間が人を教えるなどおこがましい、と考えて落ち込んだり、授業がうまくいかない気がして悩んだり、今でも感謝されるべき何ができたか、と自問自答することもあるが、ともあれ、教えるという仕事は本当に素晴らしいと心から思うし、自信もついた。むろん満足などあり得ないし、こうしておけば、という反省もある。4月からまた1年。担当する生徒も増え、受験生の教え子は今年度の倍以上になる見込み。新しい挑戦が始まる。担当の生徒だけでなく、より多くの生徒と共に歩む。担当できる科目、分野を増やす。現在は、古文と英作文に取り組んでいる。学生時代、苦手だった理科も、最近は生徒から要望があれば、臆せず授業している。苦手というのは思い込みであることもあり、大人となった今、学び直すと意外と理解できることがわかった。今までの学習経験は無駄ではないということだろう。おそらく今までで最も勉強してきた英語も、日本語との違いを踏まえて、論理的に探求できるようになってきた。勉強は大変かもしれないが、理解が進めば、間違いなく楽しい。それを子供たちに伝えたいと思う。



仕事や勉強の合間は、相変わらず稽古。4年目となった舞踏は、今年秋、踊り手の1人として、公演に参加することとなった。身体運用の初歩がまだまだで、踊りへの道ははるか彼方だが、とにかく人前に出るというだけで励みにはなる。全体稽古では、立つ、座る、歩く、本当に基本的な所作を徹底的にトレーニングする。日常生活の中で当たり前になっていることが、ここまで奥が深いとは!と、驚きの連続である。例えば、歩むというと、前に進むことばかり考えがちになるが、実は前に進みつつ、後ろからも引っ張られる力が働いていること、天地とのつながりもあることを、身体で認識するのはなかなか大変である。なるほど、これらのことは、観念的にはよく理解されていることかもしれないが、文字通り体感し、認得するには、かなりの時間を要することとなるのだ。剣術でも同じことが言える。頭でわかっていても、身体がいうことを聞かないことに悶えることもある。しかし、まずはそのことを認める。同時にいろいろなことに意識を向けることが最終的には要求されるが、まずは、ゆっくり一つずつあるべき姿に近づけていくことが必要なのだ。ある時は、シナイの手の内の形に集中する。膝の向きに集中、肩や肘の力を抜く。構えの角度や高低、拳の位置、意識を向けるところは山ほどあるが、意識しなくてもにできるようになるまでは、意識してやるしかない。意識と無意識とは、表裏一体だなと思う。まずは、無意識になっているものを意識上に引き出す。あるべき姿を探求し、ふたたび無意識の中に落とし込む。その繰り返しなのだということが、腑に落ちてきた気がする。短くとも、課題を持って、丁寧にとりくむ稽古を自らに課したい。あせる必要などない。まだまだ書きたいが、また改めて。