昨日の舞踏の稽古の前。突然、思いついた言葉を10個書いてみなさい、と先生に言われた。その言葉の中には、普段頭の中で考えている言葉が出てくるのだという。言われてみれば、確かに思い当たるフレーズが出てきた。女。毎日、間違いなく考えているなあ笑。そして、女というと、人には決して見せたくない、それこそ墓場まで持ち帰りたい思いがいくつかある。まあ、それは置いておくとして、ここ数年、自分のことを深掘りすることはそれほどしてこなかったように思う。それでも普通の人に比べれば、おそらくしてるのかもしれないけど、劇団に所属した前後、半ば気が狂うくらいやって、しんどい思いもしたので、無意識に避けてきたのかもしれない。楽しければいいのではないか、と、少しおちゃらけた道化を気取り、仮面を被り続けてきた。しかし、なによりも今言えるのは、そういった姿勢を守り続けたのは、自分と向き合うことが怖かったからだということが最近よくわかった。そりゃもう本当に大変なことだ。見たくないことも見なくちゃいけないし、辛くなって逃げたくなることもある。日常が忙しいから、今は舞台とかたってないし、と言って逃げていても、生きるだけならなんとかはなる。自分が何者なのか?未だによくわからない。芸術というものに自分なりにこだわりはあるつもりだが、将来のことはよくわからないと。普通の人生、幸せというものも大切だと、正直思う。だから、留保し続けてきている。
しかし、思い出してみれば、演劇に出会った頃は、自分と向き合うことを本当に楽しんでやっていた。向き合い続けることで自分が変わり、よくなるという確信があったからだ。今は、どうだろう。立場は変わった。人目に触れることは、残念ながら少ないが、芸について様々学び、褒めてくれる人も最近多いし、自分でもある程度はできると思える部分もある。舞踏に出会って、自分と向き合うといっても色々なやり方があることも知った。芸と自分の実人生とはエチカとして切り離さなくてはいけないと思ってきたし、実人生に冷静にフォーカスすることは、時間も体力も使うので、おろそかになったのだろう。自分がなぜ踊るのか?自分の踊りとは何か?と深く向き合わずには自分の踊りは出来ない、と、先生は言う。演劇のように役を通すことも出来ないとするなら大変な作業だ。しかし、演劇を始めた頃の甘酸っぱい、懐かしい感じも思い出す。そもそも、自分の意識の可能性を広げていくことが好きで、この世界に足を突っ込んだのだ。きつい時もあるかもしれないけど、精一杯考えていけば、自分というものが広がって、密度が高まって、きっと楽しいよ。と、自分に言い聞かす。先生が言葉を書かせたのもそんな意図があるはずだ。
ひとつ今までにない言葉がひとつ。
きらめき。書いて、と言われた瞬間、ぱっと頭に浮かんだ言葉だった。なんだろうね。と思ってたら、きらめき写真が撮れた^_^
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