春から夏へ。暑い、蒸す、と感じることの多い、この時期ですが、だからこそ、涼しげな感じ、たとえば、窓から爽やかな風が肌を撫でたりすると、なんだかとてもありがたく、かけがえのないことのように思えてなりませんね。不快さにばかり、目を向けていると、気がつくことのできない喜びがある気がします。本来、喜びに目を向けてただただ楽しんで生きていけばいいだけなのに、わざわざ自ら苦しいことを選んで、悲しんだり、怒ったり。なんだかさわがしい。
私というと、最近なんだかとても機嫌がいいです。学校は、夏休みに入り、生徒たちが毎日大勢塾を訪れます。私も朝から、自習する生徒と接し、夜まで授業をし、なかなか忙しい日々です。みんな成績がよく、順調なわけではありません。むしろ苦労している子が多い。勉強しない子もいる。どうしたら、この子たちの成績が伸びるのか?勉強するのか?と考えるのが、私の仕事なのかもしれませんが、それだけではありませんね。子供がよりいい方向に進めるように一緒に歩いていきたい。その中に学習することがあれば、いいと思う。学ぶことは、どんな生き方をしても、一生ですからね。成績よりもこのことが腹に落ちる方がよっぽど重要だと、本当は思うのだけれど。
先月から、死刑囚に関する本を読んでます。哀しむべき事件が世界中で頻発していますね。私たちは、それをテレビや新聞など、メディアを通じて目にした時、犯罪を起こした人物は、残忍で、またある種、異常であるとみなすことになります。もちろん犯罪を肯定することなど決してできないのですが、犯罪や間違いを犯すのも、また人間の姿である、ということです。文学の中でも、犯罪を犯す人間がたびたび出てくるのはなぜでしょう?そこには、人間の永遠の課題が隠されているからです。自分のにある、悪とどう向き合うのか、ということです。異常で片付けられるものではないのです。私たちの中にも確実にあるのですから。
さて、私が最近機嫌のいいのは、ある死刑囚の小説の中で、本当に素敵な死刑囚と出会ったからかもしれません。男性の死刑囚ですが、なんだか恋をしてしまったような感覚です。死刑囚に恋をするなんていけないことのように思いますか?確かに死刑囚となると、人を殺めたり、挙げ句の果てにものを盗み取る、強姦する、といった罪を重ねた人がほとんどです。また、房内でも、繰り返し、暴力を振るったり、異常と思える言動をする人がいるようです。しかし、その異常さに至った理由を探るには、死刑囚の犯罪に至るまでの生涯、また、死刑囚を収容する拘置所の環境にも目を向けなくてはなりません。僕が素敵だと思った死刑囚は、死の恐怖と戦いながら、死の瞬間まで、人間であり続けようとしたように思います。またこのことについては、日を改めて、書き綴れればと思います。