ブログを再開してみました。今まで通り、稽古や日常もろもろ書いていきます。いきなりですが、のんびりすることに罪悪感を覚えること、ありませんか?ゆっくりはダメ!なんでもかんでも期限。とにかく早く早く、と。そういう時代なんですかね。仕事などで、あんまりせかせかすると、正直、生きづらさを感じること、ありました。ただ、生活する上ではそうも言ってられず、最近は世の中のペースにだいぶ慣れてきましたが、慣れるってのもホントはどうかしてるんでしょうがね。そういう意味で、2年ほど前から、月1~2回取り組む、舞踏家の最上和子先生との稽古は、のんびりじっくり取り組むことが許されて、貴重な場だな、と、しみじみ感じてしまうのです。お人柄も本当に素晴らしい方ですし、稽古場が千葉県の野田市というなーんもないところ(失礼^_^)もまたほのぼのとしていて、よいのです。昨日の稽古は、ひとりでした。実は前々から、最上先生と一対一で稽古したいと思っていた(最上先生もそうだったようで)のですが、最近は稽古場を訪れる人の数も増え、なかなか叶わず、ようやく念願が結ばれました~。姿勢の作り方、軸の作り方などについて、かなり細かい指導をいただき、贅沢な稽古でした。身体は劇団の時からいろいろ取り組んではいるのですが、故障があったりで、未だに硬いところが多く、嫌になることもあるのですが、最上先生はその硬い、動かないという状態から始めていくことを考えてらっしゃるようです。人間の性格もいろいろな部分があるのと一緒で、いい部分だけじゃなく、嫌な部分もありますが、どんな自分も受け入れ、そこからスタートするということ。演劇の役作りでも、そのことを大切にしていたなあ。と。
床に10分以上寝そべる床稽古も、最初稽古始めたころは、正直何やってるんだろ、ってかんじで(すみません)、演劇の時習った調律というテクニックの延長でやってましたが、昨日は、モゾモゾと足掻いたり、ねがえり打ったりしてると身体のいろいろな部分が動いて、面白かったです。だいぶ繊細に動くことを楽しめるようになったなあ。昨日は寝そべる、立つ、歩くという動作をゆっく~り50分ほど稽古しました。舞踏なので、踊る稽古は?と思う方も多いかも知れませんが、実はこういう日常動作の地味な稽古(これまたすみません)が多いです。昨日も、床稽古以外ではバケツの水にゆっく~り手を入れる、バケツをゆっくり持ち上げるとか、空手家との師弟関係を描いたベストキッドの世界。表現する人なら誰でも派手なことをしたい、自分もやっぱり演劇ならエチュード稽古とか好きでしたが、最上先生のところに通い始めて、こういう基本的な稽古の大切さがだんだん身に染みてきたようです。昨年から武術も並行してやってることで、まだおぼろげながら、身体というものがあることは、劇団にいた時よりも明確に掴んできたようにも思います。ここまで来るのに少し時間はかかりましたが。
ここ数年、別に誰かに言う必要も義務もないと思ってきました(別に聞きたい人もいないとへそ曲げてた)が、今後、自分の表現の道をどうするか、ということを昨日最上先生と話したこともあり、少しその辺りを書きたいと思う。結論から言えばやる、ということになる。先生もいう通り、一度この道を歩きだしたら、絶対にやめられないんだと思う。公演もそのうちやるのだと思う。たぶん友人とモノ好きしか来ないだろうけど。昔ほど公演にこだわりはなくなったけど、表現者として認知される場として、やはり大事だと思う。では、今後は舞踏家になるのか?武術家になるのか?せっかく始めたことなので、おろそかにせず、両方ともまだまだ続けることになる。演劇をベースとして、舞踏や武術のエッセンスを加えた舞台が創作できればと考えている。以前演じた白痴のムイシュキンでも今思うと、舞踏っぽいシーンがいくつかあった。昨日、最上先生と話したアンジェイワイダの「ナスターシャ」、ニーチェのいう強度、ある文学作品のワンシーンのエッセンスを強め、煮詰めて、形にするという方向性がいいヒントになりそうだ。こんなこと、自分一人じゃキツイので、当然誰かの手を借りなくちゃいけないが、今の所あまりアテがないので、それまでは、白痴の再読、下手なシナリオでも書いていようか、と思う。まあごく一部の方、どうかお楽しみに。武術も演劇と密接な関わりがあると思っている。どこが?と言われるとまだうまく表せるか不安だが、きりあいという中に様々なドラマがあることだ。ただ切ればいい、強ければいいとか、単純なものではない。人の感情や欲というものが密接に働いているのだ。特に今取り組んでいる新陰流は、その中できらない、という理念に達したことが興味深い。その理念に反すれば、決してうまくいかない。忠実に新陰流の世界に入り、役を演じるのだ。流派の文献や絵目録を通じて交流するというのも、シャーマスティックだ。伝えるとは何か。教えるとは。師弟関係とは。こういったことももっと見えてくるであろう。これ以上書くと、面白くないからこの辺りにするか。新陰流については、またこのブログで触れたいと思う。長くなったが、一番大切なことは、芸能、芸術、また身体というものをどのように社会の中で有機化していくか?ということに一番こだわっている。最上先生に言わせると、一つの文化活動である。やっぱりどこにいっても、表現者には風当たりは強い。一言で言ってしまえば、あってもなくてもどっちでもいい。日陰者。そういう宿命なのか、とも思うけど、表現するってことは、きっと誰かの、何かの役に立つとは、僕は思うんだけどね。