日曜日
久しぶりに完全にまったりする
こんな日は読書だ
演劇や文学はもちろん好きだが、バックボーンとなる知識がもっと必要だと痛感している。昨日、本屋で立ち読みしながら、哲学とか社会学とか、アカデミックな世界に惹かれる自分がいることを再発見した。
ハイデガー、ベルクソン、ラカン、フーコー、デリダ、ウィトゲンシュタイン、マルクス。。。まだまだ数えきれないほど読みたいものがある。いつか大学で勉強したいと思ったこともあるほど。今は集中することはできなくとも、時間をうまく使ってできるだけ多くの著作を味わいたいと思う。
知の巨人と対峙すると、今まで見えなかったものが、見えてくる。うっすらと意識していたけど、言葉にならなかったものを言葉にしてくれる。
今日はフランスの社会学者デュルケムの社会学的方法の規準を読む。
社会的諸事実は個人的なものとは独立しており、物のように観察して、事実がなんであるかを詳細にすることが必要と書かれている。
最近、自分の思考のくせとして、あまりに自己の内面に依存していた気がする。そしてとらえきれない内面を神秘的なものに帰着させていた気もする。
全て理性や五感の力で明らかにできるとは思わないが、少なくともわかりうる範囲において、世界を明確に認識する努力が必要だ。神も、聖書や聖典という物質的なものを通じて認識することができるように。
社会的諸事実は、法や道徳、宗教などの制度による強制から引き起こされるが、それ以外のことからも発生する。また、例えばひとことに道徳といっても、時代や地域によってもさまざまで、研究者の解釈によっても変わってくる。いいかえれば、諸事実の範囲をどう定義するかで、社会や言葉、概念の捉え方がまったく変わってしまう。
自己や他人の思考や行動の拠り所を今まで以上に丁寧に見ていくことが必要だと思う。結局は、ひとことでいえば、観察力だが、そう単純な話ではないので、修練が必要。
日本人のための芸術作品を考える上でも、日本の社会や民俗に関する研究が必要だと前々から考えていたが、その指針を与えてくれそうな著作となるかもしれない。世の中を見つめる目をもっと広く、深く。
久しぶりに完全にまったりする
こんな日は読書だ
演劇や文学はもちろん好きだが、バックボーンとなる知識がもっと必要だと痛感している。昨日、本屋で立ち読みしながら、哲学とか社会学とか、アカデミックな世界に惹かれる自分がいることを再発見した。
ハイデガー、ベルクソン、ラカン、フーコー、デリダ、ウィトゲンシュタイン、マルクス。。。まだまだ数えきれないほど読みたいものがある。いつか大学で勉強したいと思ったこともあるほど。今は集中することはできなくとも、時間をうまく使ってできるだけ多くの著作を味わいたいと思う。
知の巨人と対峙すると、今まで見えなかったものが、見えてくる。うっすらと意識していたけど、言葉にならなかったものを言葉にしてくれる。
今日はフランスの社会学者デュルケムの社会学的方法の規準を読む。
社会的諸事実は個人的なものとは独立しており、物のように観察して、事実がなんであるかを詳細にすることが必要と書かれている。
最近、自分の思考のくせとして、あまりに自己の内面に依存していた気がする。そしてとらえきれない内面を神秘的なものに帰着させていた気もする。
全て理性や五感の力で明らかにできるとは思わないが、少なくともわかりうる範囲において、世界を明確に認識する努力が必要だ。神も、聖書や聖典という物質的なものを通じて認識することができるように。
社会的諸事実は、法や道徳、宗教などの制度による強制から引き起こされるが、それ以外のことからも発生する。また、例えばひとことに道徳といっても、時代や地域によってもさまざまで、研究者の解釈によっても変わってくる。いいかえれば、諸事実の範囲をどう定義するかで、社会や言葉、概念の捉え方がまったく変わってしまう。
自己や他人の思考や行動の拠り所を今まで以上に丁寧に見ていくことが必要だと思う。結局は、ひとことでいえば、観察力だが、そう単純な話ではないので、修練が必要。
日本人のための芸術作品を考える上でも、日本の社会や民俗に関する研究が必要だと前々から考えていたが、その指針を与えてくれそうな著作となるかもしれない。世の中を見つめる目をもっと広く、深く。