しばらくブログの更新をしていなかったが、久々に再開してみようと思う。今日、5~6年前に水戸で偶然知り合った友人であり、後輩とひさびさに電話で話して、表現すること、伝えることの大切さが身にしみて、大いに触発されたからだ。自分の深い部分を伝えることは、舞台がある。しかし、ちょっとしたことはなかなか生活の中で消化してきれない。俳優として生きる自分が他にどんなことを考えているのか、役作りとか、カラダ作り以外に何をやっているのか、自分なりに整えて考えていくことって意外と大事な気がする。でもやっぱり僕の日常は演劇ということで占められているのが現実なんだけど。もっというと、人とのつながりの中で感じたり、思ったりすることかな。本当にプライベートなことも書きたくなったら書くけどね。


今日話した友人とは、芸術・アートが「公共」の中でどう存在すべきか、関わるべきかという話が主だった。友人は、「公共」と芸術やアートの関わりについて、僕よりも長く携わっている人で、年はかなり下だが、その道では大先輩である。そんな彼の経験談を聞きつつ、話していて思ったのは、結局どうあっても地道なことをひたすらやりつづけることしかない、というシンプルなこと。やることは地味でも意外と変化や進歩があるかも?って思いながら、現実にうたれつつ、それでも前に進む。それだけだなと。


僕も劇団で劇場探しの仕事を振られていて、いまだ具体的な動きができないでいるんだけど、それはまだ考えが明確にならないからだなと思う。正直ルーティンワークをこつこつこなす時間はないので、決め打ちでこれだ!と思える方向性までいかないと今は動くにも動きようがない。ただ、何か手は打っておかないといけないという心境だ。先月関わったNPO法人に連絡取ってみようかな。とにかくカラダごと飛び込んでやりたくてうずうずしている。時間も金も関係あるか!って、海に向かって叫びたい感じ。


「ドストエフスキー」白痴の稽古がいったん終わり、1週間がすぎた。


やるかもとはずっと思っていたが、主役を稽古するよう、監督からチャンスを頂いた。本当に光栄なことである。一番僕の中で心の底からわくわくすることはやはりこれだ。今はセリフをとにかく入れている。自分の役だけではなく、すべてを音読する。自分のセリフは、自分だけで存在するわけではない。そんなことを考えながら、読んでいると自分の役だけではなく、他の役の魂にも近づける気がする。この後も、全部通して読もうかな。あとは、日々出会う人との見えない交流。これがなかなか面白い。話はしなくても、目があっただけで、声を聞いただけで、少し肌が触れ合っただけで、においを感じただけで、お互いに何かを交換し合っているのかもって考えること。出会いの中に何かがあるって信じること。運命。まだまだだけどね。


今週から新しい鼓動が始まった。僕が所属する第一スタジオメンバーとのプロジェクト。どんな形になるか、みんな不安もかかえつつ、演劇の新しい姿を模索しながら、日本で生きる人たちに、心からほんとうに大切なものを伝えていくんだろうな。でも、肩ひじ張らず、楽しみながらやっていく。わくわくする場。まあ見事にゆったり落ち着いてできるメンバーがそろったなあ。みんな何か大きな考えを持っている気がする。腰が据わっていないのは実は俺かもな笑それを引き出すのが俺の役目か。そんな気がする。これからは作品探し。作品を提案しあう活動の中で、お互いを深く理解しようとし、そして俺も伝えていくことに躊躇しない。そんな感じ。考えることは多いけど、この活動の中に何かがあるって信じている。さっきいった、公共と芸術の関わりの模索が始まった。


前から、日本人の中からチェーホフが生まれてほしいとずっと思っていた。バイト先で面白い奴に出会った。まだ若い。でも、熱いものをためこんで、少しつっついたら吐き出さずにいられないような愛い奴。ずっと文章を書くという行為にあこがれていたらしい。正直現代の日本の中でチェーホフ的存在が書くという行動だけで生まれないだろうというのが僕の考え。チェーホフにもスタニスラフスキーにも、幼少期に才能を育成する時間と体験があったのだ。それがないなら、今からやるしかないというわけで、書いてもらったものを演じるという行為を通じて、言葉をブラッシュアップしていくという作業をやりながら、脚本家を育てていくというプロジェクト。言葉じゃない、心でもないかもしれない。人間そのものとテキストを近づけていく作業。まだ知性の領域だけど、もう少し深めていくと、面白いかな。


まあとりあえず書いておきます。