昨日おとといと、研究会、ワークショップ見学、イワーノフ稽古と、密度の濃い時間を送っています。自分自身を省みても、人の話を聞いていても、終わりのない道を進んでいるなあと実感します。みんな、僕も含めて、演劇を通じて、ほんとうの美、善、そして幸せを知りたいということを知っています。でもそれがなんなのかがわからない。あまりに、真実に固執することで苦しみ、悩みもがいている姿をみてきたし、体験してきました。だから僕は、こういうことに今はしています。
「日々真実を学ぼうとして、学んでいます。」
僕は、まだまだほんとうに何も見えてなくて、そのくせ、真実とは何かとわかったよううなことをいって、絶えずよだれをたらしている、身の程知らずです。しかも、癖の悪いことに、少し昔は、中途半端に哲学書や文学をかじっていた影響か、真実は、何か高尚で、とらえどころのないものだと思ってしまい、暗中模索していた時期がありました。しかし、演劇をはじめてからは、あらゆる人間の中に、真実といえるものは存在するんだと、自然と思うようになりました。だから、あらゆる人が僕にとって先生であり、師匠であると、心からいえるのです。
ただ、人の間の中で生かされて、学び、感謝する。そう心の底から思えることが、僕にとって、ほんとうに幸せなことなのかもしれない。もちろん人に認められたいし、もう少し、様々な意味で、よりよい生活をしたいという気持ちもあります。この思いが強いから、役者なんていう、ある意味晒される存在、見られる存在であることを許容しているのかも知れないと思うこともあります。日々学んで、成長しています、なんて、ただの自己満足の何物でもないという人もいるかもしれません。でも、僕に存在価値なんてものがあるとするならば、この与えられた運命の中で、様々な人の中でもまれて、様々な出来事の中で体験する学びの中から見出されるとしか思えません。学校の勉強や本で得る知識ももちろん大事。生きるための知識を十分に身につけて、そして、知識を磨く上で身に付けた知性を生かし、一分一秒、どこで、何をするか、その行動はどこへ向かおうとするものか、そして何を課題として克服しようとするか、思考、イメージ、感情、行動など、様々な現象をヒントに、細かく分析していく。シンプルにいうと、役者は、そんな自分の日常を、そのまま役という自分ではない人間の姿を表現するにすぎないと思うのですが、それだけに、この日常が、本当に自分自身であることが非常に大切になってくると思えてなりません。
「真実だけが人の魂を癒す」アントン・チェーホフの言葉です。私という人間の日常を観ていただくことで、観客の精神に新たな命を吹き込もうとするならば、それは、どこまでも真実であることを究極の課題としなくてはならないのです。そのために、自分であるとは何かを、ロシアの演劇理論である、スタニスラフスキーシステムを通じて、学んでいるのです。最近は、正直存在価値なんてものもどうでもいいんですけどね。すべての人に、間違いなく存在価値はある。演じるのではなく、生きる、と決めた瞬間から、光は見えるのではないか、と、自分自身にも、すべての人に演じることで伝えたいです。