先週の土曜日、12/2に、吉祥寺シアターで「どん底」を上演した、東京ノーヴィ・レパトリー・シアターの公演を再び見に行く。この日は東京ノーヴィ・レパトリー・シアターの本拠地、下北沢。先日の吉祥寺シアターは、300人ぐらいは入れそうな、割と広めの劇場だったが、僕は、舞台と客席が目と鼻の先にある下北沢の舞台の方が好きだ。この日は、チェーホフの「かもめ」を見る。以前、岩波の文庫本で読んだことがあったが、ストーリーは、正直忘れていた。憶えていなかった。4幕構成の戯曲。序盤は、演技のテンポがはやい。セリフが聞き取れない。ストーリーがつかめずいらいらする。ふと、「心で見るしかない」と思った。そうか、戯曲は感情の目で見るんだった。しかし、その日は、午前中は、心の調子が不安定で、自分の感情を見るのに、精一杯になっていた。「今日の僕には、荷が重いか。。。」そんな僕を、車椅子に座ったソーリンじいさんが救ってくれた。隣に座っている人が大笑いしていたのもあるが、ソーリンじいさんの言動に笑った。車いすに座ってぶつぶつ言ってるだけなんだけど、あとからこみあげてくるような笑いを誘う。「ああ、年取ってああはなりたくないな~。でもほとんどの人間ってソーリンじいさんかも?」なんて思う。ところで、戯曲って笑うものだったんだっけ?そういえばこの日は笑い声が起こることが多かった。最後に、トレーブレフという作家が、、悲嘆のあまりピストル自殺してしまう、とても暗い話なのに。不思議だ。そのトレーブレフの母、アルカージナ役の役者さんの感情表現が、多彩で、驚いた。激昂する時、友人を抱きしめる時、息子を慰める時。男に甘えかかる時。どれも違う人のような気がした。それにしても、女って、相手によって変化できる生き物なのか。「女は魔物、妖怪」とひそかに思っている僕だが、その女性のエゴをがつんと見せ付けられた気がして、とんかちで頭をたたかれたようだった。また、僕は実生活の中であんなに自分を表現できないので、なんだか劇中のアルカージナをうらやむような、アルカージナの役者さんをうらやむような、ヘンな気持ちになった。この日感動したシーンは、作家のトリーゴリンが女優のニーナに、作家の仕事について語る場面だ。作家という仕事は人がうらやむほど大していいものではない。という趣旨だったが、ひさしぶりに、人目をはばからず、大泣きする。(まあ、会場は真っ暗闇ですが)僕自身、作家という仕事に憧れがあるので、感情移入してしまったのだろうが、今思うと、仕事って何でもそういうものかなって思う。でも、自分が好きならいいじゃんよ。最後の第4幕は、自分の生活に近いものを感じた。その前の幕と比べて、テンポがゆったりしたこともあるだろうが、人と人のやりとりが淡々としていたからかもしれない。正直、ちょっと長いな~って思うところも少しありましたが、それは普段の生活の中で、無意味に長い話をする人と同じか。終演後、劇に出ていた方、劇団関係の方と飲む。演劇についての話は、素人の僕からすると、レベルが高いが参考になる。誰かが、感情表現についての話で、人間がみずから死に向かう前に、どのようにエネルギーが動くのか?について語ってらしたのが印象的だった。僕だったら自分の中にあるエネルギーを周りのものに発散した後、静かに死んでいくだろう。なぜかそのとき「エントロピーの法則」を連想。たぶん何か関係あるね。プライベートの悩みを聞いていただく。今思えば情けない話だが、情けなくて、うじうじしているのも僕の売りですからね。自分を認識しつづけるために、とにかく毎日文章を書くことを勧められる。実はちょっと前から日記はチョコチョコ書いていた。またたまに、思いついたことをメモ帳に走り書きすることはしていた。しかし、あくまにでも、思いつきで習慣ではなかった。それを毎日やることに意味があるのだろう。創作について興味を持ち始めた当初は、文学的にとか、芸術的にとか、難しく考えていたけど、今は、自分が毎日生活する中で感動したこと、いいことも悪いことも全て思うがままに表現するスタイルが、自然に思えるし、そのことが正しいのだと自信を持てた。これからの生きるうえでのヒントをいただき、とても感謝している。