翻訳の学習で気づいたことがある。英語を日本語に訳す時に、英語のテキストの意味に適した日本語を思い出すのに苦労することがある。また、難解な言葉に出会ったときに、ろくに調べることもせず、自分勝手な解釈をして、理解したつもりになることがある。英語どころか、日本語でもまだわからないことがあることを実感する。日本人である僕が、こんなことをいうのは、ばかげて聞こえるだろう。しかしこれが現実なのだ。今の自分の現状は、高等教育を受けた人間というにはあまりに遠い。

 今の現状を招いた理由を、学生時代の学習を振り返って、考えてみた。ひとつは、大学受験にあたっての英語の速読学習である。僕が志望した大学では、いずれも、英語の長文問題が多く出題された。得点を稼ぐには、じっくり文章を読んでいては追いつかない。よって、英文の意味をおおざっぱに、しかもなるべく速くつかみ、問題にとりくむことが要求された。Z会の「速読英単語」という参考書が、学校の友達の中で、大変もてはやされたことを覚えている。(今も、書店の参考書のコーナーに行くと、おいてあるようだ。)僕も、その参考書を、カバーがぼろぼろになるぐらい、熱心に読み返したものだ。今思うと、あの学習で、英語のテキストへの恐怖感がなくなり、テキストを自然に受け入れられるようになり、読むスピードもあがったが、反面、言葉の意味を深く追いもとめることを重視しなくなったように思う。わからない言葉は、推測に頼って読んでしまう癖がついてしまった。 

 もうひとつ思い出されるのは、同じく高校時代の古文の学習である。古文とは、名詞の意味や助詞の使い方、動詞の活用などに気をつけて、丁寧に読み進めていけば、日本語を学ぶ上で、大変有益であるはずだ。しかし、私は、古文には、受験科目に含まれていなかったこともあり、興味が向かなかった。また、学校のテストといえば、意味をつかんでいれば、対応できる問題が多く、また、現代語に訳す問題も多く出題されたので、一夜漬けで、原文ではなく、現代訳を丸暗記するというありさまだった。

 この二つの過去のできごとを振り返って思ったのは、文章をゆっくりと口に含むように読み進めた経験が少ないということである。大学の4年間も、ゼミナールに所属しなかったため、何かを研究することもなく、悪癖だけつけて卒業してしまった。そのため、本を読み進めて、その著者の思想に触れて、自分を高めることもなかったし、言葉を深く考えることもしなかった。これは大きな悔いとなっていて、生きている中で、じっくり学ぶ時間を取り戻したいと考えてはいるのだが。

 何の縁か、再び翻訳という形で言葉を勉強することになり、思うのは自分を再教育することである。今まで生きてきたなかで、とくに意識もせず、日々言葉を使っていて、わかっている気になっていたが、その気持ちをすべて素に戻し、言葉と向かい合いたい。言葉について書かれている書物に目を通すことはいいだろう。自分の母語である日本語について考えるために、源氏物語や百人一首を読むのは有意義だろう。論理的で明快な作文について学ぶために、普段から、文章を、論理と表現に着目しながら読み進めたり、作文する訓練もいいだろう。論理的で明快な作文については、芹沢光治良の「人間の運命」によると、フランスでは小学校から高校で強制的に行う教育であることを知り、正直、がくぜんとしてしまったが、遅すぎるということは人生にないと、自分を励ました。また、日本語で論理的で明快な表現ができる人は、日本人でもそう多くはないはずなので、いまからでも、十分に学ぶ価値があるだろう。こうやって、生まれてきた赤子のようになって学習することは、なかなか骨は折れるが、楽しいことである。