「自由」がもっと欲しい。ここ最近は、ずいぶん自由な生活を送っている(そのかわり金銭的には悲惨)ので会社で遅くまで一生懸命働いている人や家庭を抱えている人はつむじを曲げられるかもしれない。しかし、私が冒頭で使った「自由」とは、時間の自由ではなく、意識、発想の自由である。自我と言い換えられるかもしれない。むしろ、人間が不老不死でない限り、有限である時間に自由を求めるのは、意識発想よりも単純ではない。時間の問題についてここで語るのはやめておくが、自我を完全なものにしようとする試みは、どの世界に属していようとも不可能に思える。私にとって自我さえも確実とはいえないし、他者はいうまでもない。さらに社会という構造の中に生きる私はその構造の制約について無意識である。無意識だ。しかし、確かに制約されている。今のところ、「いつの日か、純粋な自我を見出しうる日がくる」と空しき妄想をすることしか反抗のすべはないようである。自由という言葉さえも超えなくてはいけないのか。ちなみに、「自由」に生きるということは少なくともただ遊びほうけて暮らすということではないことを付加しておく。SF小説のような想像がふいに頭をよぎる。自分の意識、記憶はそのままで、自分が存在する世界が、もしくは自分の身体が急に変化したらどうなるのか?その問いに答えてくれるもの、ふとカフカの「変身」を思い出した。虫か・・・虫は嫌だなwそのような世界に陶酔できるものがあればぜひ感じてみたい。