「心中という言葉を簡単に使うものではない」と言った老紳士がいた。
思わずはっとさせられた。これを単純に縁起が悪いからとあわてて解釈しないでほしい。
いきなり挑戦的な書き出しだが、僕は傲慢な男なのかもしれない。話は、自宅の近くにある阪神タイガースファン御用達の店で、酒を飲みながら、野球観戦していたところから始まる。お店はカウンターが中心のそれほど広くはないお店で、普段は、店の人とお客同士で野球を見ながら、野球談義その他もろもろに華を咲かせる。
回も終盤になり、相手がリード。好投の先発ピッチャーを交代し、相手チームの中継ぎエースピッチャーが登場したときに、それはテレビ画面に映った。相手チームの数名のファンが「○○心中」というフレーズを書いた紙を、胸の上に掲げている映像である。あれってえらい縁起の悪い言葉だね。そういえばさっきのラッキーセブンの時に飛ばしていた風船も白くて、魂みたいじゃなかったか、ああ気味が悪いね、などと、酒席ならではの話が始まる。そんな話をしていた時に、僕の隣に座っていた老紳士からふいに発せられた言葉が、冒頭の言葉である。見過ごせばなんでもない話だが、これも小説を書くことになった男の性か。と言うのはキザ過ぎるか。ただ、なんでもないとみんなが思うところにこそ、本当に表現すべき世界があることは、一つの真実であるらしい。
まず、僕がまず目をひそめたのは、この言葉がまぎれもなく嘘だからだ。私も、熱狂的な阪神タイガースの
ファンであるが、間違っても、阪神タイガースと「心中」はしない。村上ファンドが阪神の経営権を握ってもである。ましてや、たかが1ゲームの勝敗うんぬんに「心中」することなど、ありえない。いや、すまない、これは嘘だ、かつては、おおいにあった。が、若気の至りということで許していただきたい。
とにかく、嘘が入ってしまうと、自分の阪神タイガースへの思いまで嘘になってしまう気がする。
相手チームのファンを否定したいわけではない。私も、選手に同じような感情をはせることがある。たまにその思いを裏切る浮気者もいるが。しかし、その言葉は「任せた」とか「頼んだ」とかそんな言葉である。同じ選手を信じる感情でありながら、実に気楽な感じでややもすると無責任な言葉に聞こえるなのかもしれないが、そんなもんである。所詮、野球の知識が大して高いとはいえない1ファンである。なぜマウンドに立つ選手の感情を完全に理解することができようか。「心中」という言葉には、そんな相手の気持ちと自分の気持ちをあたかも完全に共有できるかのような無理を感じるのだ。そこも好きではない。
阪神タイガースのファンは、微妙な言い回しとか、ジンクスを非常に気にする人が多い。
阪神タイガースのことを「我々」と表現したり、「お前がトイレ行くと、我々が打つからトイレ行け」とか。
また、かつて、弱い時代が続いたので、勝敗にはやはりこだわる。でも、負けたときでも、そのストレスの逃がし方を良く知っている。Gが負けたからいいや、とか。まあ、これは、僕は個人的には好きではない。タイガースが負ければどこが負けようが関係ないからだ。でも負けたときは、そんなもんか、まあ明日も頑張れってなもんである。シーズンは、負けることが常時で、ストーブリーグの妄想が一番の楽しみだったファンの強みかもしれない。負けたときのスポーツニュースは絶対みないが。
まあたかが野球である。何も「心中」しなくていいではないか、楽しく見よう。
阪神タイガースのファンとは、時に言動を問題視されるが、本来は、風流で、こだわりがあって、少しあきらめもいい、そんな人種の集まりである。僕はそれがとても美しく思い、離れられないようである。