悪意を持った人間と同じ空間にいることは非常に神経を使う。
悲しいかな、そのような人間とはそういう人間なんだと割り切って
付き合うしかないのかもと思うようになった。悪意を持った人間と
心の底から理解しあうための労力は、割り切って付き合うことの
労力の何倍を要するか知らない。いずれにしても自分に悪意を
持つ人間と付き合う以上、疲れることにはかわりないのだが。
それにしても、よくもまあ、世の中はコミュニケーション能力なん
て簡単にいってくれるものだ。口を開けば、コミュニケーション能力
なんて言葉を使う者は、実はコミュニケーションの難しさを軽視して
いるのではないかとさえ思う。
だいたい、実際の社会を見ればわかりそうなものだ。どんなに手段を
精選しても、どんなに誠意を持って伝えようとしても、話の通じない
人間はやはりいるのだ。また、たとえ、誰が見ても、100%正しいことを
自分が言ったとしても、あらゆる手段を使って、その立場を逆転しよう
と策を弄す人間がうじゃうじゃしている。皆さんのまわりにもいるであろ
う役職、縁故、学歴、資格などをかさに着てのさばっている人間を想像
して欲しい。要は、はやりのコミュニケーション手法で、簡単にわかっ
てくれるような、物分りのいい人間はそうおらず、何とかして自分が
人よりも上に立ちたいという魑魅魍魎がうごめいているのが現代
社会に存在するひとつの真実だと言いたいのである。
真のコミュニケーション能力が何なのかに興味はないが、自分を
痛めずに、そんな魑魅魍魎達と同じ空間を共有し、あたりさわりなく
付き合うことも含めて、能力だというのであれば、そんなものは実地
で渡り合いながら、鍛えるしかない。その手の本なんか読んでも決
して書いてありはしない。そんな本を読むなら、人を信じて裏切られ
続けた人間を主人公とした小説(あるかどうかはわからないが)を
読んだ方がいくらか教訓になるか知れない。
これはゲームだ。前提は、相手が、自分が思う最善の行動をとっ
てこない可能性が高い。相手はどうにかしてこちらに不快感を与え
ようか考えているということだ。
ルールが理解できてしまうと案外話は簡単だ。予想していないことが、
自分の身に降りかかったときに、人間は非常に脆い。ディベートを
するときのように、相手が次におこす行動を予期しておくとよいと思う。
私が怒りにまかせて文章を書いていることが皆様に伝わっている
だろうか。しかしそれは、空しい行為だと、書いていて自分でも気づいて
きた。だんだん本質からずれてくる。それでも書かずにいられない。
きれいごとから離れて吐き出したい。それを素直に言葉でつづることは、
これも私の純粋な表現のひとつなのかもしれないと今日は思うしかない。
人間を信じる、人間を疑う、そんな境地から抜け出せればどんなに
楽だが知れない。
信じれば裏切られ、疑えば相手も自分を疑う。それが真実なのか。