昨日、皇居周辺の桜を見ながら、靖国神社に立ち寄り、
参拝をする機会があった。
神教の信者でもなんでもないが、日本人として、一度は行う
機会があっていいと思う。
過去のわれわれの先祖に敬意を払い、ただ祈ることは
心が洗われる。
遊就館という近代日本歴史資料館に立ち寄る。
なにより、心をひかれるのは、時代を生きてきた
日本人の心の美しさである。
第二次世界大戦、太平洋戦争で命を落とした人たちの遺言には
その美しさが見て取れる。
死をまぎわにしても、なお、家族、親類、お世話になった人を
きづかうやさしい気持ち。
いつの時代でも大切なものだと私は思う。
靖国神社については、最近、頻繁にテレビ、新聞・雑誌等で
書かれているようだ。
しかし、そのほとんどが現在中国に批判を受けている、
靖国神社に小泉首相が参拝するか、しないかというテーマ
である印象を受ける。
昨日話を伺ったある人も、日本の文化について侵害されるのは、
内政干渉だから断固拒否するべきだという意見だった。
しかし、いうまでもなく、靖国神社に国家の首相が参拝するか
しないかを論議するということは本質ではないし、
中国に言われたから、日本の文化を考えるというのも、
主体的ではないではないか。
また、批判が出るのをわかっていながら、平然と同じことを
くりかえしている小泉首相はもはやアホである。
私は靖国神社を支える前提となる「日本の文化」とは何か?
ここに立ちもどる必要があると考える。
この場合、死者を大切にする文化であるとするならば、
その死者を大切にするとはどういうことかということ。
先ほども申し上げたとおり、私は過去の日本人が残した
美しい心を大切にすることであり、また、もうひとついえば、
その死者が残してきた歴史から学ぶ姿勢を持つことだと思う。
私は、今、日本の文化について考える必要性は全肯定するが、
文化とは何かを知らずに日本の文化を守るとかどうとかいっても
片手落ちな気がするだけである。
参考:
「靖国問題」高橋哲哉