砂子・明眼院【尾張】佐屋街道 | 第六天魔王の天下統一記

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第六天魔王(織田信長)になったつもりで史跡を中心に巡る小旅行記です( ̄∇ ̄*)ゞ

万場宿から北西へ。
万場の交差点で県道115号線を越えると直ぐ海部郡大治町。
少し進むと佐屋街道は西に向かい、砂子橋。
流れるのは新川。

上流方面(北)
庄内川への水の集まり過ぎによる洪水を防ぐ為の人工河川(天明七年・1787年)
なので直線的。
この先の美濃路に架かる新川橋のたもとに詳しい案内があります。

下流方面(南)
下に万場小橋(県道115号線)で、上に名古屋高速5号万場線。
高速は西(右)に直ぐ名古屋西JCTで、
直進は東名阪自動車道、北に名二環となる。

佐屋街道に戻して、橋を渡ると県道117号線で、従って西から北へ。
突き当たりに(少しずれての直進はある)

高札場跡。
ここ、砂子村には佐屋街道開設当初は宿場がありました。
しかし二年で岩塚宿に差し替えられます(嘉永十三年・1636年)

南を振り返って。

高札場跡の東に地蔵堂。

そして自性院。

更に七所神社(遠いですね(^^;)

高札場跡に戻って、
街道(県道)はここから西へ。

北側の民家の前に常夜灯と題目碑。

更に西に稲荷社。


ここの西南角は道標跡。
西に名二環が見えてくる。

佐屋街道を離れて、道標が指し示す北へ。
狭いので高札場跡から迂回しました(^^;

途中の大治南小学校の前に移設された道標。
「従是馬嶋明眼院道」
光暁寺の厚意で教材用に移設されました。
明眼院ではなく光暁寺の所有だったて事?

更に北へ。
県道68号線を越えて、大治町役場の南に明眼院。
道標跡から1kmちょっとあります(^_^;)

道標があったのもですが、離れたここに来たのは赤い格子に惹かれたから。
仁王門は濃尾地震で倒壊して撤去(明治24年)

右側の阿形。


左側の吽形。


平安から鎌倉期の作品と推測され、町指定有形文化財に。
阿形の左腰の渦巻きが特徴的、、、
たまたま案内の左に写ってた(笑・隠れてるけど)

最澄の弟子・聖円が五大山安養寺として
開基したのが始まりとされ(延暦21年・802年)

荒廃状態だったのを清眼が再興し、医王山薬師寺と改名(南北朝期)

清眼は漢方医療を学んで眼科治療を始め、
日本で最初の眼科専門の医療施設となります。

明眼院の南の馬島の交差点に天皇勅願所記念碑(streetview)
後水尾天皇の皇女を治療して明眼院の院号を賜る(寛永九年・1632年)
桃園天皇の皇子を治療して勅願寺の格式を与えられる(明和三年・1766年)

左手に旧多宝塔(国登録有形文化財)
室町時代の建立とされ、二層構造でした。
こちらも濃尾地震で被害を受けて下層だけに。

大日如来坐像が安置されてますが公開されてない秘仏。
下に写真。
鎌倉時代の作と推測されます(町指定有形文化財)

本堂は濃尾地震に耐えましたが、伊勢湾台風で被害に(昭和34年)
鉄筋コンクリートに建て替えられます(昭和53年)
本尊は行基作と云われる薬師如来坐像。

本堂の左手にキリシタン灯籠(織部灯籠)
犬山の隠れキリシタンが治療を受けて寄贈したと思われてます。
土台にマリア。

裏に小堀遠州の庭園。
池の水が無い(^^;
遠州も治療を受けたとされてます。

池の周りには信長灯籠もあるそうなのですが気付かなかった(-""-;)

東に抜けて昭光門。

門前の民家に馬島明眼院診療所跡碑。
現在は診療行為は行ってませんが、
僧侶の中には眼科医になったのも居たそうです。

2月25日