室城【三河】 | 第六天魔王の天下統一記

第六天魔王の天下統一記

第六天魔王(織田信長)になったつもりで史跡を中心に巡る小旅行記です( ̄∇ ̄*)ゞ

西尾市室町上屋敷に

神明神社。

二つの山に連なる連郭式で(曲輪は五つあったらしい)、
こちらは東の山。


参道が大手口で、社がある所は蔵屋敷。


社の裏(西側)。
ここは駐車場になってます。

北側の駐車場入口。

私は分からずに北側の道に路駐しました( ̄▽ ̄;)
(奥まで行ける様に見えない(^^;)

左が神社で右が西の山。
今は北から階段で登りますが、
当時は道路は掘で東西が土橋で繋がってたんじゃないかな?

☆現在の登り口に案内板☆

室城は東条吉良氏の重臣・富永(伴五郎)正安(祐玉)が築城と言われます(永正年間 1504~1520年)。


マークが室城。
南の☆が東条吉良氏の東条城

オマケに北西の八ツ面山麓に(東条)吉良一族・荒川氏の荒川城
北東に岸氏の上永良城(加藤嘉昭生誕地)。
更に約10㎞北に岡崎城。

(宗家)松平七代清康が家臣に暗殺されると(守山崩れ)、
(桜井)松平信定(清康の叔父)は八代広忠を岡崎から追放して実権を握ります(1535年)。

広忠はその後(諸説あるのですが)、
伊勢へ逃れた後に(東条)吉良持広を頼り(「広」は持広から)、
富永忠安(正安の子)の室城に移ります(1536年)。
(「忠」は忠安から?)

持広は今川義元を仲介し、
義元の圧力で信定を岡崎から退去させて、広忠は帰還を果たします。

☆階段脇に掘?☆

分かりませんね( ̄▽ ̄;)
実際に見ても掘られてるかな…ぐらい(^^;
階段自体堀だったかも?

上がると主郭なんですが墓地(^o^;
全体像は遠慮して

☆中央に井戸跡☆

窪んでるのが伝わるかな?(^o^;

☆東南にうっすらと土塁☆


☆西にもうっすらと土塁☆

上には標柱。
牟呂城とも書かれます。

こちらから下りると(写真は下から)

ガサカザって物音Σ(゜Д゜)
何かと思えばニャンコ( 〃▽〃)
写真を録ろうとしたら逃げられた( ・ε・)

うちの子も亡くなってもう少しで半年…
恋しいですρ(・・、)

☆下は林松寺☆

境内は富永氏の居館跡とも言われます。
墓地も当寺の。


南側には石積。
当時のものでなくても雰囲気があります(^^)
南側一帯は沼田だったそうです。


その後、持広は織田信秀と結んで義元と断交(1539年)。
荒川義広(持広の弟)は今川の兵を荒川城に入れて持広と八ツ面山付近で戦闘。
持広と忠安はその時に討死したと言われます。


信秀が安祥城を攻めたのも松平のゴタゴタ。
それに今川が進出して来た脅威から(1540年~)


持広の跡は西条からの養子義安が継ぎましたが、
変わらず織田に付いた為に今川に捕まり駿府で人質に(1549年・竹千代(家康)も居ました)。

これで(西条)吉良義昭(義安の弟)が東西統一し今川傘下に。


桶狭間の戦いの後、独立した家康は義昭の東条城を攻めます。
富永忠元(忠安の子で義昭の家老)はこの時に討死(藤波畷の戦い・1561年)。
室城は廃城となります。

義昭は降服しますが、
一向一揆で一揆側に加担(荒川氏と岸(加藤)氏も)。
家康に攻められて義昭は逃亡(1563年)。

変わりに人質時代に家康と誼があり、
開放された義安が返り咲きます(これが上野介に繋がる)。

とは言え西条城は酒井(雅楽頭家)氏に(西尾に改名)、
東条城は東条松平氏のものになってます(^^;


私は国道23号線・岡崎バイパスの側道から行きました。
バイパスと県道42号線は立体交差してるので注意です(^^;
☆に駐車場があるので思い切って突っ込んで(笑)
○2月10日訪問○


次は広忠が帰還した際に後見となった信孝の城へ。


今日、先日ラジオショッピングで注文した電子タバコが届きました(* ̄∇ ̄)ノ

前にもコンビニで電子タバコを買ったけど禁煙失敗( ̄▽ ̄;)
今度こそ?(^^;

少しでも減らせれば良いかな…σ( ̄∇ ̄;)

室城ぐらいの小山ならへっちゃらですが、
来月には近江の山城へ行くし(*´∀`)♪
頑張らねば(^-^;