
頭が痛いので薬が欲しい(´・ω・`)
(昨日の朝。今は大丈夫(^^))
朝晩の気温差が有るので皆さんも体調に気を付けて下さい(^^;
ゆっくり温泉で温まりたいなぁ(///∇///)
しかし入浴中も油断出来ない、
事件が起きた所へ向かいます。
では27日の続きを。
国道247号線で海岸沿いを北西へ。
途中の内海(うつみ)には海水浴場に温泉もあります(* ̄∇ ̄)ノ
再び美浜町に入って野間に

野間大坊。

野間大坊は大御堂寺の通称です。
ゴルフ観戦のついで行きたかった所です(^^;
野間大坊は後で紹介する事にして、
先に東にある

長田(おさだ)屋敷跡。
梅林になってます。
野間は長田氏の本拠。
長田氏は平氏でしたが源氏に従ってました。
平治の乱で源義朝(頼朝・義経の父)は平清盛に京都で破れ、東国へ落ちます(1159年)。
途中の落武者狩りで次男・朝長等が討たれ、
長男・義平(後に捕らえられ処刑)、三男・頼朝(捕らえられ伊豆へ流刑)ともはぐれ、
頼ったのが第一の家臣で乳兄弟・鎌田政清の舅の長田忠致です。
しかし裏切られて

入浴中に襲われます(1160年。野間の変)

湯殿跡は屋敷跡の東。
法山寺の直ぐ東にあります。

湯殿跡の脇に源義朝公之像。
最期に「我れに木太刀の一本なりともあれば!」と叫んだと言われます。
丸腰を襲われた無念さが伝わります( ・ε・)
政清も酒を飲まされ騙し討ち。
他の家臣・渋谷金王丸達は大事を聞き湯殿へと駆け付けますが、
途中で長田の家臣達と乱戦。

その場所は後に乱橋と呼ばれる様になりました。
金王丸はその後、常磐御前(義経の母)に義朝の死を伝えて渋谷で出家。
後に頼朝の命で義経を襲撃するも失敗して捕まり、処刑されたと言われます。

乱橋跡碑。
湯殿は少し北に。

長田屋敷は名鉄知多新線を越えて西に。
途中にゴルフ観戦した美浜コースの入口(緑の看板)。
義朝の首は血の池で洗われました。

野間大坊の東南隅にあります。
国に変事が起こると赤くなると言われます((( ;゚Д゚)))
忠致は首を清盛に差し出しますが、報償は壱岐守の官位。
不満に思い「尾張か美濃の国司になっても然るべき」と訴えましたが、
清盛は激怒し逆に処罰されそうになります。
清盛も忠致の卑怯なやり方が気に食わなかったのでしょう( ・ε・)

野間大坊の本堂右手に
贈内大臣正二位源義朝公御廟所。
奥の門から入ると

源義朝公の墓。
殺害された時の故事から木太刀が供えられるようになり、
今でも沢山の木太刀が山になってます。
この話は小さい時に初詣に行った時に母から聞かされ、それ以来私は源氏派です。
その時以来の野間大坊。
暗くて人も沢山居た事もあり、
感じが全然違って見えました。

入口の案内。
ここの横に無人のお堂があり、
木太刀もここで貰えます(500円の奉納)。

墓所には並んで鎌田政清夫妻の墓。
案内板には政家とありますが、こうとも呼ばれました。
あと政清は義朝殺害の前日となってますね。
それでは義朝に警戒されるのでは?
離れた場所かも知れませんが。
政清の妻(忠致の娘)は亡くなった政清の側で自害(川に身投げとも)。

墓所と離れて平康頼供養塔。
(案内板が切れてた( ̄▽ ̄;))
尾張国司に赴任した(1167年)康頼が荒れた義朝の墓を見て修理して保護。
その後、恩に報いる為に源氏の子孫が供養塔を建てました。
墓所には他にもお墓がありますが続きます。
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