予定してた所(山口城跡とか)に行かなかったので時間がまだあります。
「岐阜城行く?」「行かない」
「じゃあ墨俣?」「行かない」
予想通りの答え( ̄▽ ̄;)笑
で、帰り道に見付けたのが河渡の地名。
夏に大垣攻めの時に行くつもりでしたが、先に寄っちゃいます。
ここは有無を言わせず(* ̄∇ ̄)ノ笑
長良川西の堤防下の住宅に挟まれ

松下神社。
入口に河渡(ごうど)宿一里塚の石碑。

反射して眩しい…(*_*)
河渡宿は中山道55番目の宿場。
手前は加納、次は美江寺です。
加納からは、長良川に橋が架かるまで(1881年)は渡し船でした。
少し北の馬頭観音堂前に

常夜灯が建てられてます。
て、宿場が目的ではなく…
この辺りで関ヶ原の前哨戦が行われたからです。
堤防を登って

長良川に架かる河渡橋(県道92号線)。
向こうに岐阜城がある金華山。
進軍する東軍に対し、三成は前野忠康(通称・舞兵庫。前野長康の娘婿とされる。秀次事件で浪人し、後に三成家臣に…何でまた?( ̄▽ ̄;))を大将に河渡へ派遣。
岐阜城攻めと同じ時(8月23日朝)黒田・田中・藤堂は大垣城からの援軍に備え長良川左岸に進軍。
河渡に布陣してた西軍に攻めかかりますι(`ロ´)ノ
霧の中、朝食を食べてた西軍は大垣へ敗走。
後方の揖斐川右岸に居た三成も慌てて退却。
置いてかれたのが

下流の墨俣に布陣してた島津義弘。
軍議に来てた家臣の訴えを無視してです。
この事が本戦の傍観に繋がったとも言われます( ̄▽ ̄;)
これで26日の西濃編は終わり。
明日から3日の北勢編です(* ̄∇ ̄)ノ