「甘える」ということ | こころのいばしょ、じぶんのありか。

こころのいばしょ、じぶんのありか。

いっぽずつ、自分らしく生きていくために。

感じたこと
考えたこと
気づいたこと

すべての自分を認めてあげるために、

その先にある「答え」 にたどり着くために。

Cuzen Matcha (JP)

 

 

 

誰かに「甘える」だとか、

 

人に「甘える」のが上手いだとか、

 

お前は「甘えてる」だけだとか、

 

「甘えてる」から自立できないんだとか、

 

無責任に「甘えるな」だとか、

 

 

そんな時に使う、

 

「甘える」って、結局、何なんだろう。

 

 

 

子どもは、甘えても良くて、

 

大人になるためには、もう、甘えちゃいけなくて、

 

でも、一人で抱え込んでいる人には、

もっと甘えなよ!とアドバイスされることもある。

 

 

そもそも、

 

「甘える」の対義語は「自立する」で、いいのか?って思う。

 

 

 

「甘え」という言葉は、

 

あまりいい意味で使われないことが、

 

多い感じがする。

 

 

 

でも、

 

「甘える」 = 人に「迷惑をかける」みたいになってしまうと、

 

ちょっと厳しいなと思ってしまう。

 

 

 

甘えているのか、そうでないのかの境界線は、なかなか難しい。

 

 

 

 

私個人としては、

 

本当は、自分ができることとか、

 

本当は、わかっていることから、

 

 

目をそらして、

 

無意識に見ないようにしたとき、

 

それは、生き方的に、「甘えている」になると、考えている。

 

 

 

 

だから、子どもが、

 

とくに、ちっちゃい幼稚園ぐらいの子なんかが、

 

 

お父さんやお母さんに、

 

「できない~、やって~」って、甘えるのは、

 

その時は、本当にそう思っている訳だから、

 

甘えても許されるシチュエーションだと思う。

 

だって、「本当に」そう思ったんだから。

 

 

 

で、それを、

 

いい大人が、幼稚園児と同じように、

「できない~、やって~」って、やったら、

 

 

何だか見苦しくなったり、

 

どうしても嘘っぽくなってしまうのは、

 

 

「本当のこと」を知っているのに、

 

「本当は、わかっていて」それをやるからだと思う。

 

 

 

とはいえ、

 

大人だって、たくさん、

できないことや、無理なことはあるから、

 

その時、誰かに助けを求めることは、

 

この場合「甘え」にはならない。

 

 

ごく自然な、「助け合い」の関係になるはず。

 

 

 

 

そうでないとき、

 

自分自身が、本当の本当は、

 

見えている事実、わかっている真実を、

 

「見えていない」フリをして、

 

「わからない」と自分に嘘をつき始めたとき、

 

 

それは、

 

その行動は、

 

「甘え」になると思う。

 

 

 

別に何も、

 

甘えるな! 自分に厳しく生きろ!的なことを言いたいのではなく、

(私も、しょっちゅう甘々なことするし)

 

 

 

「甘えた」生き方、やり方は、どうしても、

 

身の回りの困った現実になって、

 

自分の身に還ってくるから、

 

 

 

いつも困ったことが起きてしまうときほど、

 

毎回、同じようなことで行き詰って抜けられないときほど、

 

 

「本当はわかっていること」から、

 

目を反らしてしないか自問自答してもいいかもしれない、という話。

 

 

 

 

 

おうちで楽しむ陶器市 うちる

 

 

 

 

そもそも、

 

「甘えた」生き方を、誰も好きでやっているはずはないし、

(それが、その人「らしくない」生き方なら、なおさら)

 

 

「本当のこと」から目を反らして、

 

不本意な生き方を続けてしまう理由も、きっとある。

 

当事者は、無自覚だけど。

 

 

 

 

だいたい、

 

まわりに迷惑をかけるような「甘え」ほど、

 

甘えてしまった本人的には、

 

「思いもかけず」やってしまうことが多いし、

 

だからこそ、

 

渦中にある当事者本人は、なかなか、直視できないことが多い。

 

 

 

自分の「甘えた」行動が、

 

目の前の不本意な現実をつくり出した原因だなんて、

 

 

心のどこかで「わかっていた」としても、

 

なかなか受け入れられるものではない。

 

 

 

みんな少なからず、誰かに「甘えて」生きているはずだし、

 

だから、どうしても言い訳したり、正当化して、

 

「しょうがない」ってしたくなる。

 

 

 

 

 

人は、一人では、生きていけない。

 

それは、まぎれもない、真実。

 

だから、誰かに甘えてしまうことは、絶対、誰にでもある。

 

 

 

 

っていうか、それは、

 

見方を変えれば、

 

 

誰かがいるおかげで、

 

誰かが傍にいたことが、きっかけで、

 

 

自分の中の「見えていない」「隠れていた」欲求が、

 

現れてしまった、

 

表面化してしまったとも考えられる。

 

 

 

人間関係の中での「甘える」って、

 

ごく自然発生的に、生まれるものかもしれない。

 

 

 

 

だからといって、

 

いつだって「甘える」だけでいい、

 

好きなだけ「甘えて」しまおう、

 

なんてことにならないのも、不思議なところ。

 

 

 

出会いの中で、

 

人とのかかわり合いの中で、もし、

 

「甘えている」自分に、気づけたのなら、

 

 

甘えてしまった側のすべき責任って、なんだろう。

 

 

 

 

それは、きっと、

 

甘えてしまって、

 

自分でも「目に見える」ようになってしまった、

 

自分の心の奥に潜んでいた感情(欲求)の責任を、

 

自分自身で取ることだと思う。

 

 

 

それは、

 

申し訳ないと、罪悪感を持って自分をおとしめたり、

 

相手に負い目を感じて、埋め合わせすることなんかじゃなくて。

 

 

 

自分の「甘え」を、

 

自分の代わりに受けとめてくれた相手に対して、

 

 

「すいません」とか、「ごめんなさい」みたいな言葉を生む、罪悪感に囚われて、

 

反省や自己否定を繰り返していても、

 

誰も救われないし、誰も満たされない。

 

 

 

 

負い目を感じる、その代わりに、

 

 

「甘えて」しまって、表面化した、

 

隠された欲求の存在を自分自身が認めて、

 

 

その先にある、

 

「自分がどうしたかったのか」を、自分がわかって、受けとめること。

 

 

それが、自分が果たすべき責任だと思う。

 

 

 

 

 

たとえ、無自覚に、

 

自分に嘘をついた生き方をしていても、

 

本当の気持ちを心の奥にしまっていても、

 

思わぬ形で「甘え」として漏れ出てしまったとしても、

 

 

 

そういうのも、

 

自分以外の誰かがいてくれるおかげで、

 

何かの瞬間に、自覚できる形になったのなら、

 

 

 

ちゃんと、最後まで、

 

自分のことを「わかってあげる」ことができれば、

 

自分が「本当はどうしたいのか」に気づくことができれば、

 

 

 

 

そのときは、

 

「ありがとう」って、素直に、心から言える。

 

 

 

 

そうすれば、

 

そんな関係になれば、

 

お互いに、きっと、うれしい。

 

 

 

 

 

人は、自分を満たす方法を知るために、

 

満たされた自分の姿が、誰かの喜びになることを知るために、

 

誰かと一緒に、生きたいのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

座間カウンセリングスペースArrive

岩佐利彦

 

Arrive リンク画像