「職業としての小説家」★★★★☆ | Jiro's memorandum

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【経歴】 日本株アナリスト、投資銀行、ネットメディア経営企画、教育事業経営、人材アドバイザー、新聞社経営管理、トライアスリート

「職業としての小説家」(村上春樹)

 

もしサブタイトルをつけるとしたら、「村上春樹の夢をかなえる仕事術」とか「村上春樹流、超仕事術」とか「村上春樹の仕事で最大の成果を上げる方法」などだろうか。

 

というのはもちろん半分冗談だが、とはいえ、実際、自分の仕事(あるいは世の中全般の仕事)に照らし合わせてみても参考になる部分や共感できる部分が多々あった。かつ、大好きな小説家の村上春樹さんの本なので、読み物としても最高レベルで面白かった。

 

小説家という職業の特異性、さらには村上春樹さんという才能の特異性、を勘案すれば、誰にでもまねのできる仕事術ではないだろう。しかしまったく別世界の話でもなく、ベースの部分では、かなり幅広い仕事に共通する、普遍性・汎用性のある仕事術(というか仕事への向き合い方、仕事観)と感じた。自己啓発本としてもお勧めしたい一冊だ。

 

 

ポイントは、常識にとらわれない、直感を大切にする、好きなようにやってみる、楽しむ、土台となるフィジカルを鍛える、など。

 

 

 

以下、備忘

 

 

 

1978年4月のよく晴れた日の午後に、僕は神宮球場に野球を見に行きました。その年のセントラル・リーグの開幕戦で、ヤクルト・スワローズ対広島カープの対戦でした。・・・

1回の裏、高橋(里)が第一球を投げると、ヒルトンはそれをレフトにきれいにはじき返し、二塁打にしました。バットにボールが当たる小気味の良い音が、神宮球場に響き渡りました。ぱらぱらというまばらな拍手がまわりから起こりました。僕はそのときに、何の脈絡もなく何の根拠もなく、ふとこう思ったのです。「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」と。

・・・それは空から何かがひらひらとゆっくり落ちてきて、それを両手でうまく受け止められたような気分でした。・・・それは、なんといえばいいのか、ひとつの啓示のような出来事でした。英語にエピファニー(epiphany)という言葉があります。・・・「ある日突然何かが目の前にさっと現れて、それによってものごとの様相が一変してしまう」という感じです。それがまさに、その日の午後に、僕の身に起こったことでした。それを境に僕の人生の様相はがらりと変わってしまったのです。

 

 

「やっぱり僕には、小説を書く才能なんかないんだ」と落ち込みました。普通ならそこであっさりあきらめてしまうところなんだけれど、僕の手にはまだ、神宮球場外野席で得たepiphanyの感覚がくっきりと残っています。

あらためて考えてみれば、うまく小説が書けなくても、そんなのは当たり前のことです。生まれてこの方、小説なんて一度も書いたことがなかったのだし、最初からそんなにすらすら優れたものが書けるわけがない。上手な小説、小説らしい小説を書こうとするからいけないのかもしれない、と僕は思いました。「どうせうまい小説なんて書けないんだ。小説とはこういうものだ、文字とはこういうものだ、という既成概念みたいなものを捨てて、感じたこと、頭に浮かんだことを好きに自由に書いてみればいいじゃないか」と。

 

 

僕が長い歳月にわたっていちばん大事にしてきたのは(そして今でもいちばん大事にしているのは)、「自分は何かしらの特別な力によって、小説を書くチャンスを与えられたのだ」という率直な認識です。

 

 

僕は29歳になったときに、「小説を書きたい」とごく単純にわけもなく思い立って、初めて小説を書きました。だから欲もなかったし、「小説とはこのように書かなくてはならない」という制約みたいなものもありませんでした。今の文芸状況がどのようなものかとかいう知識もまったく持ち合わせていなかったし、尊敬し、モデルとするような先輩作家も(幸か不幸か)いませんでした。そのときの自分の心のあり方を映し出す自分なりの小説が書きたかったーーただそれだけです。そういう率直な衝動を身のうちに強く感じたから、あとさきのことなんて考えずに、机に向かってやみくもに文章を書き始めたわけです。ひとことで言えば「肩に力が入っていなかった」ということでしょう。そして書いている間は楽しかったし、自分が自由であるというナチュラルな感覚を持つことができました。

僕は思うのですが(というか、そう望んでいるのですが)、そのような自由でナチュラルな感覚こそが、僕の書く小説の根本にあるものです。それが起動力になっています。

 

 

小説が書けなくなるスランプの時期を一度も経験していません。・・・とても単純な話で、僕の場合、小説を書きたくないときには、あるいは書きたいという気持ちが湧いてこないときには、まったく書かないからです。書きたいと思ったときにだけ、「さあ、書こう」と決意して小説を書きます。

 

 

「『時間があればもっと良いものが書けたはずなんだけどね』、ある友人の物書きがそういうのを耳にして、私は本当に度肝を抜かれてしまった。今だってそのときのことを思い出すと愕然としてしまう。(中略)もしその語られた物語が、力の及ぶ限りにおいて最良のものでないとしたら、どうして小説なんか書くのだろう? 結局のところ、ベストを尽くしたという満足感、精一杯働いたというあかし、我々が墓の中まで持って行けるのはそれだけである。私はその友人に向かってそう言いたかった。悪いことは言わないから別の仕事を見つけた方がいいよと。・・・さもなければ君の能力と才能を絞りきってものを書け。そして弁明をしたり、自己正当化したりするのはよせ。不満を言うな。言い訳をするな」(レイモンド・カーヴァ―)(村上春樹『書くことについて』より)

 

 

長い歳月にわたって創作活動を続けるには、・・・継続的な作業を可能にするだけの持続力がどうしても必要になってきます。

それでは持続力を身につけるためにはどうすればいいのか?

 

それに対する僕の答えはただひとつ、とてもシンプルなものです―――基礎体力を身につけること。逞しくしぶといフィジカルな力を獲得すること。自分の身体を味方につけること。

 

 

 

あなたが(残念ながら)希有な天才なんかではなく、自分の手持ちの(多かれ少なかれ限定された)才能を、時間をかけて少しでも高めていきたい、力強いものにしていきたいと希望しておられるのなら、僕のセオリーはそれなりの有効性を発揮するのではないかと考えます。意志をできるだけ強固なものにしておくこと。そして同時にまた、その意志の本拠地である身体もできるだけ健康に、できるだけ頑丈に、できるだけ支障のない状態に整備し、保っておくこと―――それはとりもなおさず、あなたの生き方そのもののクオリティーを総合的に、バランス良く上に押し上げていくことにも繋がっていきます。そのような地道な努力を惜しまなければ、そこから創出される作品のクオリティーもまた自然に高められていくはずだ、というのが僕の基本的な考え方です。

 

 

 

もし全員を楽しませられないのなら

自分で楽しむしかないじゃないか

 

この気持ちは僕にもよくわかります。全員を喜ばせようとしたって、そんなことは現実的に不可能ですし、こっちが空回りして消耗するだけです。それなら開き直って、自分がいちばん楽しめることを、自分が「こうしたい」と思うことを、自分がやりたいようにやっていればいいわけです。そうすればもし評判が悪くても、たとえ本があまり売れなくても、「まあ、いいじゃん。少なくとも自分は楽しめたんだからさ」と思えます。それなりに納得できます。