L'Arc-en-Ciel
6th Album 「ark」
5th track



DIVE TO BLUE



感覚的にではなくて、誰もが納得できるような理由を踏まえて、ようやくDIVE TO BLUEの歌詞を紐解くことができた。わかったことは

①DIVE TO BLUEはやっぱり自殺の歌で、飛び降りた本人は自殺のつもりではなかったけど、結果的に死んだ。
②飛び降りの舞台はビルの「屋上」でなければならず、高い塔とかではダメ。


重要なのは②だ。②が①を保証している。なぜ飛び降り自殺は、ビルの屋上から行わなければならなかったのか、それは建築学の視点から論理的に検証できる。かなり長くなったが、おそらくこの歌を今まで以上に深く味わえるだろうから、ぜひとも読んで頂きたい。

学校の屋上に独りで立ったことがある人はどれくらいいるだろうか?建物の屋上というのは、ただ単に「景色のよい高いところ」ではない。屋上とは、告白をする場所であり、授業をさぼって煙草を吸うところであり、ムカつくやつを呼び出して凹るところであり、カップルで凸凹するところだ。異論は受け付ける。言いたいことは「日常的ではないことをする場所」だということだ。

屋上が非日常的なことをしたくなる根拠は2つ。
①社会のありとあらゆる場所が監視の目にさらされ、場所の使い方が定められている中で、屋上はその鎖から解放される場所だから(世界からの社会的・精神的な逃亡)。
②壁や天井に囲われておらず、音の聞こえ方が普段とは全く異なる上に、近くに音を発するものがない。それが視覚にも影響し、目に映る景色が物理的な距離以上に遠く感じられ(※1)、あたかも架空の世界にいるように感じられるから(世界からの身体的な逃亡)。
わかりやすく言えば、屋上で青姦するとしても①立ち入り禁止の場所だから(同じ目的のやつ以外は)誰も来ないし②喘ぎ声が漏れても誰にも聴こえないし聴かれてるような気も全くしない、ということだ。

※1:子どもに見えている景色は遠近感が乏しく、紙に描いたように見えている。屋上に登ると同じことが起こり(音が反響しないので距離感が失われているから)、「懐かしい光に導かれる」

しかし人間とは弱いもので、そのように自由に感じられる屋上に立つと、おセンチな気持ちになってしまう。自分が現実の世界の中に存在していないような不安に駆られて、「俺の地元はあっちのほうなんだぜ」とか言いながら、世界と自分とを再びつなげようと試みる(心理学では定位とか言われる)。屋上は人の気持ちを独りぼっちにさせちゃうのだ。だからこそ屋上は、一人でいれば普段以上に自分の内面と向き合える場所になるし、二人でいればその寂しさを埋めようとエロティックな展開になる。よく漫画で屋上で告白するシーンが出てくる。告白の瞬間は1人ぼっちでもあるし、2人一緒でもある。その微妙な関係から、前述の2つの気分が重なり合って奏でられるドラマというわけだ。しかし告白という命を懸けた人生の1大イベントよりも、さらに過激なドラマがある。それは文字通り命を懸けた、飛び降り自殺だ。

「命を『懸けた』とは間違った言い方だ。屋上から飛び降りれは間違いなく死ぬではないか」という意見もあろう。ただそれは違う。屋上からの飛び降り自殺は、死ぬこと以上に生きることへの希望が表現されているからだ。自殺の方法としては飛び降りが2番目に多い理由は、そこにあるのではないか。自ら新しい世界へと踏み出すことに、命を懸ける。他の死に方とは違う世界へと繋がっているかもしれない希望を持って。


ここまでで②は証明できただろうか。身体と心が「さびた鎖」から解放され、かつ異世界へと繋がっているような景色へと飛び込むことができる場所。その解放感が建築的な条件と非常に深く関わっているために、塔ではダメだということだ。付け加えるならば、屋上にはたいてい自力で越えられる柵がめぐらされていることで、「ひざ下の境界線」を自らの意志で越えていく、という決意への助走距離が用意されていることも大きい。

以上のことから、この歌は希望に満ちた自殺の歌で、でも結局自殺になっちゃった歌だと断定してもいいと思われる。もう少し詳しく、この解釈と歌詞の整合性を確認したい。

「誰かささやいた」
の誰かは、他ならない自分。屋上に立ち、普段は隠れていた無意識の自分の声が聞こえた描写。

「背中合わせの自由」
は屋上における自由が持続しないものであることを表している。そこには居続けることができない。むしろ自己との内なる会話の中で、精神が追い詰められていく。そこから逃げ出したくなっていく。逃げる先は元の日常か、それとも・・・

「会いたくて会えなくて揺れ惑うけれど」
これはなかなか解釈が難しいが、例えばあなたが屋上で授業をサボりながら、まじめに授業を受けている好きな女の子を思っている青年だとする。あなたと彼女は同じ学校に居て、同じ2時16分を過ごしているが、2人は決定的に隔たった世界と時間にいる。物理的にはすぐそこ15m先にいるのに、はるか遠くに彼女を感じるだろう。ここに連れてきたいが、それは叶わない・・・そう考えている内に「目覚めた翼は消せな」くなってしまう。

「枝分かれした道 神のみぞ知る」
死んだらどうなるのか、やってみなきゃわからない。

「止められないスピード・・・」
落下中の描写、もしくは、アウトドアセックスで腰を振る描写。ここだけはどちらとも言い切れない。

「見なれた未来」
はもと来た階段を引き返した先にある日常生活。
「壊れた幻想」
はこの歌詞で唯一頂けない表現。壊れてる本人が自分のことを壊れてる、なんて言わないだろう。とにかく死ねば新しい世界があるんじゃないか、の意。

歌詞ではなく音そのものはどうだろうか。これは歌詞と違って「これが正解だ」と言えるような根拠は見つからないが、あえて言及してみる。注目したいのはギターソロ後の、テンポが半分になるところ。多くの人が浮遊感を感じると思うのだが、この「浮遊」が落下しているのか上昇しているのかを曖昧にしてる点が素晴らしい。電車に乗っていて、駅で停まっている。すると急に動き出したように感じるのだが、実は隣のホームの電車が発車しただけだった、という感覚と(たぶん)同じだ。

さらにCDのジャケットにもこれまで述べてきたことが見て取れる。背景のビルは輪郭が鮮明に写っている。しかし落下中の人物の顔と手はピンボケしている。自殺/自殺でない、希望/絶望が、表情から読み取れないようにしてある。さらにさらにいうなれば、ビルの最上階がヨーロッパの建築様式であるオーダーを採用していることも注目に値する。これはあう一人の男のドラマではない。現代という時代に行き詰っまりを感じている人全てが、懐かしさの中に偽りの希望を求め、未来を放棄することへの警鐘を鳴らしているのだ。と拡大解釈できなくもない。

最後に、ぺらっとジャケットをめくり、ラルクが自殺を推奨しているわけではないことを注記しておく。彼らでさえ、当時は屋上(ミュージックシーンの頂点)で、帰る道を失っていたのだ。進む先もまた見えず。ただ彼らは死ぬことを選ばなかった。屋上で、塞ぎ込んでしまうことはあっても。

10年の時を超え、彼らはビルの屋上に再び立っている。今度は「夜空を切り裂いて駆け昇るジェット」を身に着けて。ビルフェチのtetsuyaが我々に届けてくれた極上のビルソング2曲。最高だ。


もしここまで読んで下さった方がいるのなら、本当に有難うございます。




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