弟3人が亡くなり母は… 「やっぱり生きるがために」“中国人”として生きる覚悟も 90歳が語る“満州柏崎村”の記憶 【戦後80年 終戦特集】

2025年10月1日 11:30

BSN新潟ニュース



新潟県柏崎市には戦時中、国策として旧満州へと送り出された開拓団の記憶をつなぐひとつの塔があります。柏崎から満州に多くの人が渡り、命を落としました。もしも戦争がなければ、引き裂かれることのなかった家族が大勢いました。


戦後80年。

90歳の男性に聞く“あの日の記憶”とは―


高台にそびえる『満州柏崎村の塔』。

その裏に刻まれているのは、旧満州に渡り、命を落とした人たちの名前です。


「そうだよな、“満州の土”となった」


7歳で満州へ渡った巻口弘さん(90)。

この日、満州で失った3人の弟たちの名前を静かに見つめていました。

「もうなんか涙で泣いているみたいな…」


巻口さん家族の運命が大きく変わったきっかけは1932年。日本が、現在の中国東北部に傀儡国家『満州国』を建国したことでした。


国は疲弊していた農村経済の立て直しや土地不足の解消などを目的に移民政策を本格化し、“国策”としておよそ27万人を満州へと送り出しました。


和装小物の卸販売をしていた巻口さんの父・栄一さんもそのうちの一人で、巻口さんは1942年に家族7人で海を越えました。


巻口さんは当時、7歳でした。


「当時の日本の教育の影響もあったかもしれない。大きくなったら何になるんだ、兵隊さんになるんだとかね。飛行機乗りになるとか、子どもなりに“夢は日本の国を守る”という精神で」


豊かな暮らしを求め、希望を胸に『満州柏崎村』を造ることを目指した開拓団。

しかし、国策に託した夢はわずか3年で打ち砕かれます。


1945年8月上旬、巻口さんの父親を含む開拓団の男性に軍の召集命令が下されました。その数日後の8月9日には旧ソ連軍が満州に侵攻。残された女性と高齢者、そして巻口さんら子どもたちの逃避行が始まりました。


巻口さんは当時の記憶を紡ぐように話します。


「大雨が降って、川も水が氾濫している中、命がけでロープを渡してつたって行った。ロシア軍の兵士たちが乗り込んできては、『腕時計をよこせ』『金の指輪をよこせ』とか。そのほかにも“女性狩り”で、女性を草むらに連れて行って…」


満州での開拓生活と、この厳しい逃避行の中で、巻口さんは3人の幼い弟を失いました。


柏崎から海を渡った200人余りの開拓団のうち、半数以上が飢えや病気などで現地で命を落としたとされています。


終戦の年、10歳だった巻口さんは、18歳で帰国を果たすまで中国で過ごしました。


豚の世話に野菜売り、木の伐採まで働きづめの生活を送りました。中国での名前ももらい、"中国人として”生きる覚悟もしたそうです。


巻口弘さん(90)

「やっぱり生きるがために。現実はつらいんだろうけれど、気丈に自分を生かしていかなければならない、やることやっていかなければならない。そういうことに自然になりますよ。もう理屈抜きですよ。時代がそうさせる」


終戦後、巻口さんの父・栄一さんはシベリアに3年近く抑留され、日本に帰国。

残された母・シズさんは4人の子を抱え食料も底を尽きる中、現地の中国人に命を救われ、その妻となりました。


戦争によって引き裂かれ、離れ離れとなった家族…


母・シズさんの手記には、こう書かれています。

『自分の過去を考えると悔しくてなりません。けれど自分に与えられた運命と自覚しております』


現地に取り残された人たちの中には生き延びるために中国人と結婚した女性や、養子になった子どもが多くいたそうです。


シズさんが再び母国の土を踏んだのは1975年。

国策のため満州へと渡ってから、実に32年以上がたっていました。


7歳で満州へ渡った巻口弘さん(90)

「武器を持って力で人を圧して自分たちの有利な境遇を得たいなんていう、そんな考えは絶対にあっちゃならない。(子孫が)知らないことを言い伝えていく。残された今の自分の幸せを感じれば感じるほど、やっぱりじっとしていられませんよ」


柏崎市の高台にそびえる『満州柏崎村の塔』には、こう記されています。


『再びこの過ちは繰り返しません』


激動の時代に人生を翻弄された家族とその事実が、今を生きる私たちに戦争の悲惨さを訴えています。