2024/12/04 神戸新聞地方版
 敗戦で満州から、暴徒恐れ逃避行 次々に入水、兄と体くくられ川へ 現在91歳「体験伝えるのが私の使命」

 集団自決で両親ときょうだいを亡くした。当時12歳だったが、その場面は脳裏に焼きついている。「満蒙開拓団」として高橋村(現豊岡市但東町)から入植した山下幸雄さん(91)は、旧満州(中国東北部)で終戦を迎えた。直後に「地獄絵図」としか言いようのない経験をした。来年で終戦から80年。体調を崩しても、「体験を伝えるのが私の使命」と語り続けている。(池田大介)
 地域で開拓団の経験を語れるのは山下さん含めて2人だけになった。長男の文生さん(64)は10年ほど前から講演に同行し、映像や記録を残してきた。今年4月に山下さんが肺炎と心不全を併発してからは、代わりに語る機会も増えた。11月30日には尼崎市内で講演し、山下さんは酸素吸入器を付けて登壇、文生さんが隣で支えた。

 満蒙開拓団とは日本が建国した傀儡(かいらい)国家・満州国へ渡った農業移民で、日本各地の農村から27万人が移り住んだとされる。多くは辺境の地で過酷な生活を強いられた。

 山下さんは1944年3月、両親と兄、妹、弟らと満州に渡った。すでに戦況は悪化しており、成人男性は次々と徴兵され、開拓地に残ったのは高齢者と女性、子どもばかりだった。

 45年8月9日、ソ連軍が侵攻してきて、一帯に避難命令が出された。約400人いた村民は集団で逃げ出し、都市部に身を寄せた。15日の敗戦を迎えると、一部の現地住民らが敵意をむき出しにし、襲撃を恐れて開拓地に戻らざるをえなくなった。

 帰路では暴徒化した人々が鎌を持って待ち構えており、いつ襲われるか分からない状況だった。みな極度の緊張と疲労で、次第に追い詰められていった。山下さんの弟は3歳。おなかがすけば泣き出し、暴徒に見つかるかもしれない。「泣く子は殺せ」。そんな空気が強まり、父は弟を殺すことを決めた。

 短刀を構えた瞬間、母は父を投げ飛ばした。「絶対に泣かせない」。叫びながら弟に覆いかぶさった。以降、なぜか分からないが弟が泣くことはなかった。

 17日午前10時。いよいよ暴徒から逃れられないと判断した一行は、集団自決を決意する。近くには増水した川があり、女性や子が次々と濁流に飛び込んでいった。割腹する男性もいた。山下さんは兄と背中合わせにして体をくくられ、川に投げ込まれた。「天皇陛下万歳」。2人の絶叫が響いた。一瞬、両親と他のきょうだいが川下に歩いて行く姿が見えたが、あっという間に気を失った。

 目が覚めると、柳の枝にしがみついていた。後ろの兄はすでに死んでいた。「自分も死ななきゃならん」と川に飛び込んだが、勝手に体が動き泳いでしまう。何度も繰り返したが死にきれず、刀を持った団員に首を切ってもらおうとしたところ、駆けつけた現地住民に「死んではいけない」と止められた。

 この集団自決で両親、兄、妹、弟を含む298人が亡くなり、山下さんらは難民収容所に移った。

 収容所の環境は劣悪だった。食事はまともに支給されず、大量のシラミが体をはった。山下さんは空腹に耐えられず、シラミを取って塩と水と一緒に食べた。ソ連兵による女性への暴行や略奪も相次いだ。

 戦争が終わっても続く苦境。収容所のまとめ役の女性は終戦の詔書を読み上げ、訴えた。「何をされても犬にかまれたと思いなさい。ここまで生きてきたのに決して自殺してはならない」
 収容所生活は1年2カ月で終わり、引き揚げ船で帰国して本土の土を踏んだ。孤児となった山下さんは親族の家を転々とし、その後は農業をしながら会社員として戦後を生きた。講演後、山下さんは語った。「平和の大切さを忘れないでほしい」
 満蒙開拓団は略奪や集団自決、飢え、寒さ、病気などで約8万人が命を落としたとされる。そして帰国できないまま中国に取り残された残留孤児も数多くいた。講演会は残留孤児と家族を支援する「コスモスの会 尼崎日本語教室」が企画した。