2024/09/26 信濃毎日新聞朝刊 


 宣伝雑誌に連載「国策に乗った」―情報提供求め 小布施の小林さん 元青少年義勇軍の父が執筆

 小布施町小布施の印刷会社経営小林暢雄(のぶお)さん(80)は、太平洋戦争中に満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍の隊員だった父の故国雄さんが満州(中国東北部)で書いた小説を探している。「草原の風と雲と」の題で、少年たちの現地での生活を描いた。当時、月刊の宣伝雑誌「開拓青年」に連載され、一部の写しは手元にあるが欠けている回も多く、物語の全貌は分からない。「国策に乗っかってしまった」父の思いに触れようと、情報提供を求めている。

 国雄さんは1920(大正9)年、小布施村(現小布施町)で生まれた。40年に「羽賀中隊」の一員として渡満。勃利(ぼつり)の訓練所を経て「龍湖義勇隊開拓団」として入植した。

 小説は、入植日から約1年間の記録に基づく。開拓団で必要な建物の設営や井戸掘りなどの場面が登場。使役した現地民「苦力(クーリー)」との関わりについて、主人公の「私」は「渡満したばかりは満人達のすべてが匪賊(ひぞく)ででもあるかの様に思ひ込んで居た」と明かす。交流するうちに「此(こ)の幼稚な考へ方は幾分か改まつた」「此れからはなるべく彼等(ら)に接して彼等を知ることに努めやうと考へた」と心境の変化をつづった。

 開拓青年は義勇隊機関紙で、発行部数は5万部。連載は43年に始まり、暢雄さんは4回(44年1月号)と、6~11回(44年3~8月号)の計7回分の写しを保管している。連載はその後も続いた。

 各開拓団に配られたとみられ、発行を待ちわび、仲間同士でむさぼるように読んだと話す後輩もいたという。所在について、県立長野図書館(長野市)や満蒙開拓平和記念館(阿智村)で調べてもらったものの判明しなかった。

 国雄さんは16歳のころ、帆船「日本丸」に乗って訪米。自動車の大量生産など米国の国力を目の当たりにし、戦っても勝ち目はないと考えたという。44年3月、24歳で召集され、暢雄さんは出征当日に生まれた。国雄さんから「戦争は負ける」と言われ、同年8月に母親のわかさんと帰国。ソ連軍の侵攻に巻き込まれずに済んだ。国雄さんは沖縄を経て台湾で終戦を迎え、46年6月に復員した。

 国雄さんも生前、小説の欠けている回を探したが、98年に亡くなった。暢雄さんは小説について「満州は厳しいが良い所だ―との内容で、おやじは国策の一環に乗っかってしまった」とする。一方で「20代前半だった父が満州での生活で見聞きし、感じ、行動したことを小説から感じ取りたい」。「大陸の花嫁」として満州へ渡り、帰国後に28歳の若さで亡くなった母のことも「少しでも分かればいい」と望んでいる。