2024/09/18 産経新聞

 今年の8月14日午前11時40分-。東京・目黒の五百羅漢寺(ごひゃくらかんじ)。朝からうだるような暑さとなる中で葛根廟事件の関係者らが黙祷をささげた。

 79年前、あの満州の草原にもギラギラとした夏の強い日差しが照り付けていた。14台のソ連(当時)軍戦車は“丸腰”に近い日本人避難民を蹂躙(じゅうりん)し、容赦なく銃弾を浴びせた。ほとんどが、お年寄りと女性、子供たち…。「11時40分」はソ連軍が一方的な虐殺を始めた時間である。

 葛根廟事件は日本人として絶対に忘れてはならない事件のひとつだろう。次代に語り継がねばならない事件である。これまでも記事に書いてきたが、何度でも書く。現在も続くウクライナ侵攻の“やり口”をみても、ロシア(ソ連)という国の非道さは昔から変わっていないからだ。それを指摘されても開き直って恥じることがない…。

 あの夏がそうだった。昭和20(1945)年8月9日、ソ連軍は日ソ中立条約を一方的に破り、150万超の大軍で満洲国との国境を越える。終戦間際の駆け込み参戦は、“火事場泥棒”と変わりがない。さらに、国際法に反して約60万人もの日本人をシベリアへ抑留し、ロクな食事も与えず、酷寒の地で重労働に就かせ、少なくとも約6万人が“殺された”のだ。

 ソ連軍侵攻時、すでに主力を南方にとられていた日本の関東軍はなすすべもない。それどころか、司令部を新京から南の通化へ下げる決定をひそかに行っていた。民間の在留邦人は事実上、置き去りにされてしまう。

 ソ連軍の南下は“無人の野を行く”がごとし、である。満洲国北西部の中心都市、興安街(現中国内モンゴル自治区ウランホト)にもソ連軍は迫っていた。約3500人の在留邦人は事前の計画に従い、複数の班に分かれて避難を始めるが、集団のひとつは出発準備に時間を取られ、先に去った軍にトラックや荷馬車をあらかた徴発されてしまう。出発時間は遅れた。

 ◆虐殺、自決、孤児
 徒歩で逃げていた、その約1200人の集団が、葛根廟と呼ばれるラマ寺院近くでソ連軍に追いつかれたのは、8月14日の昼前だった。

 「戦車だ!」という避難民の絶叫を聞くや、逃げまどう人たちを目がけて、ソ連軍の戦車砲や機関銃による攻撃が火を噴く。一家6人の逃避行中、事件に遭遇し、妹を亡くした大島満吉(88)によれば、「それからたった30分くらいの間に約600人もの人々が殺された」という。

 悲劇はそれだけにとどまらない。追い詰められ、絶望した人々は青酸カリをあおり、幼いわが子の行く末を案じて自ら手にかけた…。「地獄絵図」だったろう。

 その場でソ連軍の攻撃から逃れられた人もけがや病気で亡くなった人は多い。奇跡的に生き残り、内地(日本)へ生還できたのは、100人あまりでしかない。

 「中国残留孤児」となって生き延びた子供たちも30人強、いた。戦後、来日して事件の関係者と再会を果たせた人もいる。大島の記憶にあったのは事件当時、1歳くらいの男児の姿だ。凄惨な現場で家族は殺され、男児はひとり懸命に手を挙げていた。

 だが、自らも命の瀬戸際にいる大島の一家には応える術(すべ)がない。与えられる水もなかった。「助けられなかった」という悔悟の念がずっと消えなかったという。「(残留孤児として)来日したとき、面影があり、年齢などの条件も合致していて、間違いないと思った。あのとき助けてあげられなかったあの子が、よくぞ生き延びてくれました」


 ◆関係者の高齢化で
 葛根廟事件では1000人以上の日本人避難民が犠牲になったとみられている。

 大島の一家は新京(現中国長春)へ脱出し、その後、内地へ帰ることができた。昭和45年には「興安街命日会」が発足。大島は長く代表を務め、五百羅漢寺での慰霊祭を続けるとともに、さまざまな機会や手段を通じて事件の証言を行ってきた。

 だが、戦後すでに80年近い。関係者の高齢化は避けられない。命日会は昨年でいったん終了し、今年の会は有志によって執り行われた。「私も『次年の約束』を軽々にできない年齢になった。それでも、『続けてほしい』という声が多く、こうした形(有志)になったのです」
 もうひとつ、大島の家族は「生き残った者」ゆえの葛藤とも闘い続けねばならなかった。「(多くが亡くなった中で)私たちが生き残ったという思いは消えない。特に両親には、その『事実』が重くのしかかりました。非常に重いテーマなんです」
 ◆生存者の慟哭(どうこく)
 時事通信解説委員長から日銀副総裁になったジャーナリストの藤原作弥(さくや)(87)も生き残った者の葛藤に苦しむ。父親は興安街にあった満洲国軍の興安軍官学校の教員で、軍関係者として情報をいち早く入手できる立場にあった。それゆえソ連軍がやってくる前に、一家は“最後の貨物列車”に乗って避難することができたのである。

 葛根廟事件の「真相」を藤原が知ったのはそれからはるか後、40歳を過ぎてからのことだった。再会した母校の興安国民学校元同級生らから、「クラスの半数以上が事件に遭って亡くなったこと」を知らされたのである。事実を知った藤原は慟哭した。「なんで俺だけが生き残ったのか、今まで知らずにいたのか! やるせなくなって地団駄(じだんだ)を踏み、号泣しました」
 言うまでもなく藤原は「書くこと」を仕事にしている。それから満州で起きたことを調べ始めた。関係者に会い、現地にも行って、本や原稿にして書き続けてきた。それが藤原の責務である。

 このほど、3度目の刊行となった『満州、少国民の戦記 総集編』はその集大成だといえようか。満州で体験した自伝的ノンフィクションに加えて、満州関係の対談やインタビューなどを網羅して盛り込んだ。何度も復刊されたのは、出版関係者の中にも「満州」を語り継ぎたい思いがあるからだろう。

 命日会の副代表として大島を支えてきた藤原の姿は8月14日の会にもあった。「80年近く前にこうした事件が起きたことを、多くの日本人、とりわけ若い世代には知ってほしいと思う。私には『書くこと』しかできません」=敬称略(編集委員 喜多由浩)